東京フラッパーガール ※試し読み※

     一

 二宮環は、目を閉じて深呼吸した。
 この角を曲がった板塀の先に、ヤツがいる。
 日は落ちたとはいえ、九月はまだまだ残暑厳しい。こめかみを汗がひとすじ、伝った。
 落ち着け。
 ヤツは尋常ならざる警戒心の持ち主だ。今も背後に追っ手が迫っていないか、全神経をとがらせているだろう。そう、あのうなじの毛をピリピリと逆立てて。
 依頼主からも、くれぐれもヤツの行動には用心するよう言い含められている。
 決して、油断はするまい。
「ヤツは、いましたか?」
 背後からの声を目線で制して、塀の陰からそっと向こうをのぞき見た。
 まだ、いる。
 黄昏時に、その黒装束は今にも溶け込んでしまいそうだった。
 これまでどんな手を使ってもその捜査網をくぐり抜け、逃げおおせてきた。神出鬼没で、大胆で、そして怖いもの知らずで。
 だが、それももう終わりだ。
 この手で、引導を渡してやるときが来たのだ。
 ぐっと両のこぶしを握りしめ、環は意を決した。もう一度、背後を振り返る。緊張した面持ちの相棒が、小さくうなずいた。
 ──行くわよ!
 エナメルの靴が、未舗装の道路を一気に蹴る。
「ここで会ったが百年目。覚悟おし!」
 環の怒声に、ヤツが振り向く。薄暗がりの中、驚きに満ちた両の目があやしく光った。
 塀の上で長々と寝そべっていた体躯が、瞬時にして臨戦態勢に入る。
 しかし、もう遅かった。
「──やっと見つけたわよ、クロ!」
 言うなり環は、路上に放置されていた長椅子へ飛び乗り、ヤツを両手で捕獲した。ぎにゃあ、という断末魔に似た声を聞いたかと思ったとき、バランスを失い地面へと落下してしまった。
 環の腕に爪を立て、ヤツは逃れようと空しくあがく。しかし、もう遅い。
「やりましたか?」
 遅れて相棒が駆けつけた。手には籐製のかごを下げている。
「まあね。さあ、飼い主さんがお待ちかねよ。いい子だから、おとなしくしなさい!」
 砂ぼこりにまみれた環は、ヤツ──クロちゃんを目の高さに抱き上げると、黒猫は観念したのかがっくりと両耳を伏せた。
 
 
 目の中に入れても痛くないほどの愛猫・クロちゃんを大事そうに抱えつつ、依頼主の有閑マダムはご機嫌で帰って行った。
 バタン、とドアが閉まる音とともに、環の上半身からは力が抜け、そのまま机に突っ伏してしまった。
「……なんなの、猫探しってさ。ほんっと、馬鹿馬鹿しい……」
「そうはおっしゃいますが、これも探偵としての立派な仕事ですよ。お嬢さま」
 答えたのは、環の相棒兼お目付役の葛葉敦だ。
 長身に黒縁眼鏡。これだけなら珍しくないが、問題は服装である。
 立襟長袖の白シャツの上に、絣の着物。そして小倉袴。とどめが素足に下駄履きときた。
 まるで明治時代の書生が迷い込んできたようだ。男子の洋装が進んだモダン東京では、絶滅危惧種に近い風体である。
 この明治書生は、さるいきさつでこの『二宮探偵事務所』に住み込んでいる。
 彼の手には、クロちゃんとの立ち回りでほこりまみれになった環の衣装があった。これから一階の洗濯室に出しに行くらしい。
「なにさ、偉そうに。そりゃあ、引き受けたからにはやるわよ。あたしが言いたいのは、そもそもなんでこんなつまらない依頼しか来ないのかってことよ」
「こちらは知名度ゼロですし、仕方ありません。お茶の水の暗智探偵などは有名ですが、あちらはそれだけの実績がおありですから」
「…………」
 数々の難事件を解決した名探偵の名を引き合いに出され、環はまたもや机に突っ伏した。
 昭和五年現在、この東京市だけでも相当な数の探偵事務所が存在する。そんな中、女学校を出たばかりの小娘なぞ、信用も知名度もゼロどころかマイナスに近い。
「あたしはね、迷子猫や財布の捜索だの、不倫男に天誅を下すだの、そんなのがやりたくて探偵になったわけじゃないのよ。あーもう、誰でもいいからでっかい事件を持ってこないかしら」
「たとえば、どんなものですか?」
 問われ、環はがばっと身を起こし、ここぞとばかりに熱弁を振るった。
「そりゃもう、天下を揺るがすような大事件よ! 連続殺人とか、銀行強盗とか、汽車乗っ取りとか、大規模テロリズムとか!」
「社会的影響の強い事件は、まず警察が解決すべきです。そのための警察機関なのですから。探偵は読んで字のごとく調査業務を主とする者であって、犯罪捜査をする者ではありません」
「……分かってるわよ、言ってみたかっただけ」
 葛葉の言葉は限りなく理屈っぽいが、正論ではある。環も白旗を揚げざるをえなかった。
「ろくな依頼しか来ないのは、お嬢さまの責任ではありません。さっきも言いましたが探偵事務所が供給過多で、知名度の低い事務所は淘汰されているんです」
「つまり、暗智さんとこみたいな大手に一極集中してるってこと?」
「探偵事業にも資本主義が定義されるのであれば、依頼人が消費者、探偵が生産者、満足の行く依頼解決が商品となります。消費者は購入先を検討し自由に選ぶ権利がありますから、有名どころに集中するのも当然でしょうね」
「めんどくさいなあ、もう。要するにどういうことなのよ」
「要するに、このままお客をただ待っていても、知名度ゼロのこちらには勝ち目はないと言うことです。いかがですか、そろそろお考え直しては……」
 いつもの結論に達し、環はぎろりと葛葉をにらみつけた。
「結局それが言いたいだけでしょ。なによ、持って回った言い方して。あんた、まだあきらめてなかったの?」
「もちろん。ぼくは何ヶ月でも何年でも、お待ちしておりますから」
 かみつかんばかりの環の剣幕をさらりと受け流し、葛葉は洗濯物を抱えて事務所を出て行った。
 ひとり残された環は、ふたたび深いため息をついた。
 
 
 二宮環は、元はれっきとした伯爵令嬢である。いや、勘当されたわけではないので「今でも」なのだが。
 二宮家の勃興は、祖父・二宮平八の代からだ。
 平八は生まれこそ長州藩の下級武士だが、西南戦争から始まり日清・日露戦争と華々しい戦績を挙げた一方で、自軍の犠牲者を最小限に留めたことから、殺生を嫌うという意味の“聖将”“麒麟”などの異名を持つ英雄だった。功により伯爵位を叙した後は陸軍大臣などを歴任し、現在は政界から退いて青山の別邸で隠居生活を送っている。
 長男である父は後を継いで軍人の道に進み、現在は陸軍中将として第一師団長を務めている。ふたりの兄も軍人だ。環はその末娘である。
 環が抱く祖父の印象は、温和で囲碁を趣味とする好々爺だ。もちろん別邸にはおびただしい勲章や記念写真、戦利品の銃などが飾られてはいるが、平和な時代に生まれた環にとってそれらは作り物のように思えたし、祖父が凄惨な戦場を駆け回っていたとは今でも信じられない。
 祖父自身もかつて英雄であったことを鼻にかけることなく、むしろ戦争を忌避していた。「戦争はわしらの代で終わりにしなければいかん」が口癖で、実際に陸軍大臣時代に史上初の軍備縮小政策を断行した。
 子どものころ、窮屈な赤坂本邸から逃げ出して、よくおやつを食べに行った。家宝の壺を割ったのを叱られたくなくて、避難所代わりにしたこともあった。
 そんな不肖の孫娘を、祖父はことのほか可愛がってくれた。環にとって祖父はただの『おじいちゃん』なのだ。
 だが、世間ではそうは見てくれない。
 環はいつだって『二宮平八の孫』としか見てもらえず、祖父の名声に釣り合うだけの学力や振る舞いを求められた。祖父の知り合いから「きみは麒麟の孫娘だから、きっと麒麟児になるだろう」と言われたこともある。将来有望だと褒めたつもりだろうが、当時は子ども心でも女の子に向かって言う台詞ではないと感じたものだ。
 どこへ行っても枕詞はついて回り、鎖のように縛り付けた。
 女学校時代は言うに及ばず、卒業してもなお鎖はこの身を締め続けた。
 このままでは、環は『二宮平八の孫娘』としての人生しか送ることができない。祖父の名にふさわしい結婚相手に嫁ぎ、祖父の名に恥じない良妻賢母となるしか、道はない。
 実際、父である宗次郎は『二宮平八の息子』に恥じぬよう、軍人としての栄誉を極めた。環の兄たちもまた『二宮平八の孫』として順調に昇進を重ねている。この家に生まれた者はみな、そう生きるよう定められているのだ。
 しかし環は、そんなのはごめんだった。
 それが運命だと、ましてや女性には自分の人生を決める権利などない、と言われても、納得できなかった。
 そうして環は、家を飛び出した。しかし家出したところで、具体的になにがしたいと決まっていたわけではない。職業婦人を目指すにも、お嬢さま学校に通っていたせいで手に職などあるはずもない。
 そんなとき、目に付いたのが電柱に貼られていた探偵事務所のビラだった。
 もともと探偵小説の熱心な読者であった環は、これこそが自分の求めていたものだと確信し、当時の所長に拝み倒して助手にしてもらい、気がつけばこうして事務所を引き継ぐまでに至った。勢いとはまことに恐ろしいものである。
 あれから一年。
 十九歳になった環は今、九段下に立つ集合住宅『九段坂アパートメント』を二室借り受け、一室を事務所として、すぐ隣の一室を住居としている。
 一からのスタートのため、最初のころは訪問者といえば新聞と郵便の配達員くらいだった。新聞広告や電柱のビラ貼りなどの地道な活動を重ね、そのおかげか最近ようやく細々ながらも依頼が来るようになった。
 環がこのような活動をしていることは、当然実家の両親や長兄は猛反対だ。お題目のように「伯爵令嬢の自覚を持て」と繰り返している。
 だが、環はこの仕事で己の出自を前面に押し出したことは一度もない。
 二宮と看板を掲げてはいるが、誰も出身を見破ったものはいないのだ。
 こうして環は、探偵稼業にいそしんでいた。
 あいつがくるまでは──。
 
 
 うっとおしい梅雨のさなか、やつは来た。
 口を開いてまず最初に発したのは、
「突然のご訪問、失礼いたします」
という、なんとも堅苦しいあいさつだった。
「申し遅れました。今年の春から二宮家の書生として住み込んでいる、葛葉敦と申します。以後、お見知りおきください。今日は、旦那さまの名代として参りました」
 そう自己紹介してから、懐に手を入れ一通の封筒を取り出した。封を切り便せんを開くと、懐かしい達筆がしたためられていた。
 読み進めるうちに、たちまちこめかみから血の気が引いていった。
「なによ、これ……」
「旦那さまからのお手紙です」
「そんなの見りゃわかるわよ。そうじゃなくて、なんでこんな手紙をあんたが持って来たか聞いてるのよ!」
 手紙にはいたく簡潔な文体で『おまえの行いを見逃すのも限度がある。ついては、二宮家の書生である葛葉をお目付役として付かせ、おまえの行動を逐一報告させるからそのつもりにしなさい。それがいやなら帰ってくるように』としたためられていたのだ。
 しかし環の剣幕にも動じず、葛葉は直立不動で答えた。
「おそれながら、旦那さまはご自分が説得に出られると、お嬢さまが意地でも帰られないのを見越しておられます。ですから、ぼくが間に入るようにとの仰せでございます」
 この四角四面な様子ときたら。さすが、軍人一家に仕えるだけはある。
 埒があかないと感じた環は、実家に直接電話をかけて父である宗次郎に説明を要求した。
 しかし肝心の返事は、
「書いてあるとおりだ。いいかげん探偵の真似事はやめて、葛葉と帰ってきなさい。もう十分気は済んだだろう」
というものだった。
 あまりの横暴さに、環の怒りは沸点に達した。
 環がなにより束縛を嫌う性質であることを知った上で、お目付役を寄越したのだ。そうすればうんざりして帰るだろう、と踏んで。
 たしかに、ようやく自由を手に入れ人生の春を謳歌していた環にとって、実家からの使いなど邪魔以外の何者でもない。しかし、このままおめおめ帰るのは、もっと癪に障る。
 そう考えた環は、怒りのあまり父の提案を逆手にとってやった。
「分かりました。じゃあ、好きなだけ監視させてくださいな。彼はわたしの方で責任持って預かりますわ。何年かかるか分かりませんけどね」
 すると、伊達に十九年環の父をやっていない宗次郎も、「そうか、では好きにしなさい」と応酬した。まったく、今思いだしても腹立たしいことこの上ない。
 そうして環は、いわば売り言葉に買い言葉といった形で、葛葉を預かってしまったのだ。
 
 
 初印象は最悪だった。
 まず、見た目が気に入らない。
 背は高いが縦に長いというだけで、まるでマッチ棒のように貧弱だ。くわえてモダンさのかけらもない、野暮ったい書生姿。
 顔立ちを含む素材はむしろ良い方なのだから、背広のひとつでも着ればもっと見栄えがよくなるだろうに、彼は一書生であることを理由に頑なに服装を曲げようとしない。
 頑ななのは、服装だけではない。忠義一徹というか、とにかく融通が利かないのだ。
 本人によると、環の祖父の推薦を受け故郷の萩から東京の大学へ進学し、卒業後はいったん山口に戻って働いていたが、法律の勉強をするためふたたび上京して二十七歳にして二宮家の書生になったという。
 そのせいか、祖父と父には多大なる恩を抱いているようで、三ヶ月経った今でも環を連れ戻す使命を忘れてはいない。
 使命を抜きにしても忠実に仕えてくれるのはある意味ありがたいが、大震災でもビクともしなかった丸ビルのごとき堅牢さには、ほとほと手を焼いた。彼の生真面目さは、同時に環がもっとも嫌う堅苦しさなのだ。
 そのためこちらでも扱いに困り、はじめは事務所内の雑用などをさせていた。そのうち彼は、環の受けた依頼内容が危険なものではないかをチェックするようになった。
 当初は横やりを入れられて腹も立ったが、法律家の卵なせいか的確な指摘をするため、ちょっと知恵を借りるつもりがなし崩し的に相棒をまかせるようにまでなってしまった
 これでいいのだろうか、と自問することがなくもないが、環自身葛葉が側にいる現状にすっかり慣れてしまったのも、また事実であった。
 
     二

 ひとり事務所に残された環は、気を取り直して机の隅に積んでおいた朝刊を引き寄せた。ぱらぱらとめくっていくと、大小さまざまな事件が飛び込んでくる。
 学生と社長夫人とが不倫の末に共謀して夫を撲殺、内務大臣が移動中に交通事故死、軍用飛行機がテスト飛行中に墜落、とある銀行が経営破綻……。
 世の中はこんなに物騒なのに、どうして自分には探し猫くらいしか依頼が来ないのだ。
 もっと、血湧き肉躍る大事件の依頼が舞い込まないものか。
 環がもはや日課となったため息をついたとき、ある記事が目に入った。
『カフェー、バーに新規制』
 記事によると、風紀取り締まりに意欲を見せる警視総監が、都下のカフェーやバーの営業時間を午前零時に短縮するらしい。これにより、深夜まで働かされていた女給たちは、日付が変わるころには店を出ることが可能になるのだ。
 カフェーとは、洋食や酒を提供し、女給と呼ばれる女性従業員が男性客を接待する飲食店である。基本的に性的サービスは御法度であるがそれも建前だけで、店を一歩出れば客は女給を貸宿である待合に連れ込むもよし、公休日に温泉旅行へ出かけるのもよし、というふうに、まったくの無法状態であった。そのため、女給という職業は一般的には娼婦と変わらないという認識を持たれていた。
 今回の規制は、夜半どころか下手をすれば夜明け近くまで接待せねばならない女給たちにとって、たいへんな朗報である。
 ざっと記事に目を通した環は、にんまりと笑った。
 ──新しい警視総監も、なかなかやるじゃない
 そこへ、洗濯物を出してきた葛葉が帰ってきた。
「お嬢……いえ、所長」
 あらたまった口調に、環は紙面から顔を上げた。身分を隠しているため、人前では「お嬢さま」ではなく「所長」と呼ぶよう言いつけてある。
 うしろには、男が立っていた。年齢は三十代後半、仕立てのよい背広にカンカン帽をかぶっている。
「ちょうど受付にいらっしゃったので、ご案内しました」
 そう言うと、葛葉は茶を入れるためにキッチンへと向かった。依頼人は困惑顔だ。所長が小娘なのが意外なのか、大の男がお茶汲みなのが気になるのか、もしくは両方か。
 環は席を立ち、男を部屋の隅にある応接椅子へ座らせた。詳しく話を聞く。
 男は國枝正彦といい、新宿のカフェー『アムール』で店長をしていた。『アムール』は従業員数が合わせて十人ちょっとの、こじんまりした店だという。ここへは、知人から「カフェー関係に強い探偵事務所がある」と聞いてやって来たらしい。
「さっそくですが、うちで働いていた女給を探してもらいたいんです」
 水商売に従事する男らしく、オールバックをポマードで固めた國枝は、表情を曇らせて言った。
「『働いていた』ということは、今は辞めたのですか」
「辞めた……というか、行方が分からないんです」
 國枝の話によると、三池文代という名の従業員で年齢は二十二、『アムール』には一年ほど在籍していたという。
 遅刻や早退もなく、勤務態度はおおむね真面目であった。人付き合いはあまり得意ではないらしいが、聞き上手だったのでいったん付いた固定客はほとんど離れることはなかったそうだ。
 昨今は女給と言えば、ブロマイドを売り上げたりレコードを吹き込んだりする売れっ子ばかりが喧伝されるが、実際はこういう女が圧倒的多数なのだ。
 その真面目な女給が、一週間前に突然姿を消してしまったという。
 ──あーあ、また人捜し?
 環は内心、落胆した。
 なんということはない、よくある話だ。
 これが名家の令嬢や一般家庭の主婦ならば大問題だが、酒の相手をする女給には裏でさまざまな事情を抱えている者が多い。借金で首が回らないだとか、たちの悪いヒモにたかられているだとか、大黒柱である夫が病気で生活費を稼がねばならないだとか、真面目に勤めていてもある日突然店を飛び出すことがままある。
 そんな女給を探し出す依頼など、逃げた理由が容易に推測できる分、面白味もなにもない。
 せっかく新しい依頼が来たというのに、環の食指は毛ほども動かなかった。
「まあ、それは面妖だこと。神隠しにでもあったのかしら」
 およそ近代的な探偵とは思えない言いぐさに、興味の薄さを感じ取ったのか、國枝は重い口を開いた。
「……すみません。実は、行方不明なのには心当たりがありまして……」
「あら、なんでしょう? 真面目な方だとお聞きしましたが、揉め事でも起こしましたの?」
 環の問いに、國枝は浮かない表情をさらに暗くした。葛葉が置いていった湯飲みを手に取ることもなく、がくりとうなだれる。
「ここだけの話なんですが……」
『ここだけの話』と聞いて、その手の話に目がない環が身を乗り出すと、國枝は意を決したのか顔を上げた。
「彼女、店の売上金を盗んでいったんです」
「売上金、ですか。失礼ですがおいくらくらい……」
「……ざっと千円です」
 予想を超える大金に、思わず息を呑んでしまう。背後に控える葛葉も動揺で足許が乱れたのか、カランと下駄の音がかすかに聞こえた。
 一般的な家庭ならば、月百円もあればそこそこの生活が出来るという。年収に換算すると千二百円になる。一度にその金額が盗まれたとなると、大問題だ。
 実家にいたころなら金額を聞いてもピンとこなかったろうが、探偵生活をはじめたおかげで、人並み程度には金銭感覚を身につけた。少なくとも、自分で自分の財布を持ち歩き、中身を把握する程度にはなった。
「わたしは雇われ店長でして、今月の二十日にはオーナーに売上金を納めなければなりません。もし金が盗まれたことが分かれば、ただでは済みません」
 二十日というと、あと二週間もない。普通に警察に駆け込んでも、絶対間に合わないだろう。下手をすれば現場検証だけで過ぎてしまう。
 さらに、今日の新聞にも載っていたように、警察はカフェーを目の敵にして取り締まりを強化している。どこのカフェーでも叩けば埃のひとつやふたつは出てくるものだし、なるべくなら関わり合いたくないというのが本音だろう。「ただでは済まさない」オーナーとやらも、その辺りは同様かもしれない。
 だからこの男は、探偵に頼む気になったのだ。おそらく、藁をも掴む思いで。
 目立たない真面目な、どこにでもいる女給。その女が大金を持って逃走した。その裏には、果たしてどのような理由があるのだろう。
 そして、警察には言えない、秘密の依頼。
 環の脳裏に張られたスクリインに、警察の裏をかいて暗躍する華麗なる女探偵・二宮環の艶姿が映し出された。
 ──面白い、こういうのを待ってたのよ!
「お願いします、どうか彼女を見つけ出して金を取り戻してください!」
 必死の形相の國枝に向かい、環はあごを引いて大きくうなずいた。
「お話、ようく分かりました。お力になりましょう。もう少し詳しくお聞かせいただけますか?」
 傍らから、新しい依頼に燃える環に呆れたらしい葛葉の小さなため息が聞こえた。
 
 
 國枝から聞き込んだ話は、以下のようになっている。
 一週間前の九月一日、國枝は閉店後に店の金庫に売上金を入れた。鉄製の手提げ金庫である。
 その後店を施錠し、帰宅した。このときはまだ例の取り締まり前であるため、午前二時前だったという。翌朝一番に出勤すると、通用口の鍵が開いており、金庫が盗まれていた。
 そしてその日以降、三池文代は店に来なくなってしまったという。
「物盗りではなく、女給の犯行だと断言していましたね」
 國枝が帰った事務所で、葛葉は難しい顔をして言った。
「勝手口の鍵が開いてたのよ。店長によると合鍵はマネージャーが持ってるらしいんだけど、事件の三日前に文代さんが忘れ物をしたからって借りてったらしいから、そのときに複製したんじゃないかしら。それに金庫は隠れた場所にあってすぐには分からないのに、家捜しした形跡がなかったそうよ。金庫のありかを最初から知ってた内部の犯行なら、可能よね」
 そして、最大の疑惑。
 それは、文代が下宿を引き払っていたことだ。
 売上金がなくなり、文代が怪しいとにらんだ國枝は、すぐに新宿の角筈にある彼女の下宿をたずねたが、そこはもぬけの殻だった。大家に聞くと前夜に物音がしていたが、引っ越しの話は聞いていないらしい。いわゆる、夜逃げというやつだ。
 仕事場から金を盗んでおいて、のんきに自宅でくつろぐ馬鹿はいない。きっと、その足で逃げたのだろう。その点から國枝は、文代が犯人であると確信したという。
「問題は、どこへ逃げたのかよね」
 葛葉の入れた紅茶を飲みつつ、環はつぶやいた。
「郷里に戻ったとかでしょうか」
「どこの出身かは知らないけど、違うと思うわ。だって千円よ? 都落ちしてきた女がそんな大金持ってたら目立って仕方ないし、だいいち田舎じゃそう使い途はないでしょ。物品にあふれた東京ならまだしも」
 デスクの横でポットを抱えたままの葛葉が、首をひねる。
「では、まだ東京に潜伏していると考えてよさそうですね。気になるのは、盗んだ理由です。女給は普通の職業婦人より収入があるのだから、こつこつ稼げばよさそうなものなのに、危険を冒してまで金を盗んだ。なにか、一気に大金が必要になったんでしょうか」
「ここ最近、文代さんはなにか思い詰めた様子だったというから、悩み事が金に関することなのは間違いないでしょうね」
 環もまた、腕組みをして考える。
「女が一時的に大金が必要になる事態と言えば、あれか……」
「心当たりでも?」
「堕胎、とか」
 不穏当な発言に、葛葉はあからさまに眉を寄せた。
「いやでも、千円はかからないわね。あたしが以前お客に紹介したモグリの医者だってそんなに取らなかったし」
「お嬢さま!」
「可能性のひとつとして言ってみただけじゃない。あたしがしたわけじゃなし」
 しかし、葛葉は大まじめな顔で詰め寄ってくる。
「仮定であっても、女性の口から出すべき言葉ではありません。そもそも、本来ならば請け負ってはならない依頼なのですよ。医者の紹介自体は法に触れませんが、もう少し節度を持っていただかねば」
「はいはい、分かったわよ。もう」
 うるさいやつだ、とげんなりしつつ、別の可能性を提示した。
「あとは、男ね」
「男、ですか」
「そう。起業に失敗したとか、博打でスっただとか、理由をつけた男にせびられるの。で、恋人を失いたくない女は仕方なしに金を融通する。どう、ありそうじゃない?」
「……ありえますね」
 今度は葛葉も同意した。
「となると、文代さんはその男の元へ隠れてるってことかしら」
「可能性はありますが、限りなく低いと思われます」
 空になったカップに紅茶を注ぎながら、葛葉は言った。
「ぼくがその男なら、文代さんを金づるにします。巻き上げるだけ巻き上げたあと彼女を切り捨てて、かくまうような真似はしません。一緒に捕まりたくないですから」
 平然とした口調に、環は少なからず面食らった。
 石部金吉に改名した方がよさそうなこの男が、そんなエゲツないことを言うなんて。
「あんたまさか、似たようなことしたんじゃ……」
「可能性のひとつです。堕胎の話と一緒ですよ」
 先ほどの意趣返しのつもりらしい。
 環はふたたびげんなりしつつ、カップを置いた。
「どこから当たるおつもりですか」
「そうね、仲間の女給には事前に國枝さんから探りが入ってるだろうから、今さら新しい情報は入らないでしょうね」
「と、なると……」
「文代さんの常連客がいいわ。女給と客には、知られざる秘密がある場合が多いのよ」
 そう言うと、環はにやりと笑った。
 
 
 いったん帰らせた國枝に再度連絡を取り、文代の客のうち事件があってから足が途絶えた者がいないかどうか調べてもらった。
 すると折り返し電話があり、津本という男が文代の出勤日に欠かさず来店していたのに、事件後はぱったりと姿を見せないということが判明した。ほかにも数人の客がいたが、それらはみな数ヶ月前からご無沙汰なので、今回の失踪とは関係なさそうだった。
「以前は毎日のように文代さんがいるか電話してきたのに、それもないんだって。まるで、文代さんがいなくなったことを知ってるみたいじゃない?」
 カフェーにおける電話は、客と女給とをつなぐ重要なホットラインだ。客は店に電話をかけ、お気に入りの娘が出勤しているかを確認してから来店する。そうすれば確実に会えるし、熱心さを相手にうったえる手段にもなる。
 文代が欠勤してから一度でも確認の電話があれば、ボーイが不在を伝えるため津本が来ない理由も分かる。しかしその一度もないのだ。津本が文代の不在を知る手立ては、本来ならばないはず。
「でももし、津本がなんらかの形をもって文代さんがもう出勤しないと知れば、店に確認の電話を入れる必要もなくなる。あたしは、そこがあやしいと思うのよ」
 國枝によると、津本は『アムール』に来るようになってようやく一ヶ月程度の新顔だという。だが、客としてはかなり目立っていた。
 文代の出勤日には必ず来店し、高価な酒を惜しげもなく注文してチップもはずみ、さらには文代にさまざまな贈り物をしたという。よほど文代がお気に入りだったのだろう。この気前の良さは不景気の昨今にはめずらしく、女給たちの間では話題になっていたそうだ。
 かくいう文代も、最初のころは丁重にもてなしていたが、さすがに毎回来られるとうんざりして、事件直前では津本が来ると理由をつけて席を外してしまうこともあったという。それでも津本は、ひとり酒を舐めながら戻ってくるのをひたすら待ち続け、しまいには閉店してからは帰り道を付いてきたりするため、文代はときどき同僚に愚痴をこぼしていたという。
「執着心が強いのでしょうか。厄介な御仁ですね」
「まったくね。いくら金払いがよくても、こういうのはごめんだわ」
 環はしみじみと言った。
「でもこういうのって、けっこう多いのよね。で、たいてい別の店でも女給に付きまとって“おはきもん”になる」
「“おはきもん”とは?」
「“出入り禁止”ってこと。困りきった女給が店に泣きついて、来店を断ってもらうのよ」
 水商売特有の隠語に、慣れない葛葉は戸惑い気味だ。
「なるほど……。では津本の身辺を探ってみますか?」
「そうしたいけど、肝心の素性がはっきりしないのよね」
 客として来るようになって日が浅いせいか、どこに住んでいるのか、職場はどこか、國枝だけではなくほかの女給も知らないという。
 文代と同席した女給仲間が、「商大出の計理士」という肩書きをかろうじて耳にした程度だ。なるほど、大盤振る舞いするだけあって、かなりの高給取りである。
「でも、さっき言ったように“おはきもん”になってる可能性もあるから、そっちから当たってみるのもいいかもね」
「……ということは、“アレ”を使うんですか」
 葛葉が不満そうな声を漏らす。“アレ”を快く思っていないのだ。
「そうよ。なんたってうちは『カフェー関係に強い探偵事務所』ですからね」
 環があごを上げて言い切ると、
「……承知いたしました」
と、なおも不服そうに唇を曲げた。
 
 
“アレ”の手はずが完了したのは、午後四時少し前だった。事務所に戻り、書類の整理をしている葛葉に声をかける。
「じゃ、あとよろしくね」
 環を連れ戻しに来た葛葉は、現在事務所で寝泊まりをしている。もともとは住居用の部屋なので水回りや風呂便所の設備もあるし、長椅子を寝台代わりにもできる。以前は事務所の片付けもひとりでしていたので、まかせっぱなしにできる今はとても楽である。
「お嬢さま、今日は何時頃お帰りですか」
 ドアを半分くぐったところで問いかけられ、半身を戻す。
「新聞に零時以降の営業は禁止って出てたから、その少しあとくらいかしらね」
「かしこまりました」
 毎日の合い言葉と化しているやりとりを終え、今度こそ環は自室に入り、衣装室にこもった。
 探偵業の間も薄く化粧はしているが、さらに入念に塗り重ねる。鏡に写る肌は、新米の左官屋が塗った壁のように分厚い。笑うとかけらが剥がれてきそうだ。ウビガンの香水を耳下につけてから、髪を整えた。
 環の髪型は、耳下まで髪を切り後頭部を剃り上げるイートン・クロップではなく、あごのところで切りそろえた長めのボッブだ。家を出てまず最初にしたことは、断髪だった。旧婦人の象徴である耳隠しをばっさり切ったとき、言いようのない爽快感を覚えたものだ。軽佻浮薄たる断髪娘は良縁に恵まれないというが、環からすればむしろ望むところである。
 最後に、青いジョーゼットのワンピースに着替えた。実家にいたころは基本的に和服のみだったが、今は一年を洋装で通す。探偵業をやるからには、動きやすい格好が一番だ。
 身支度を終えた環は、ビーズ刺繍の入った派手なバッグを手に、玄関ドアを開けた。
 一階に下りエントランスをくぐって、通りがかりの東京市内なら一律一円で走るタクシー、通称円タクをつかまえて銀座に向かわせた。
 これから、裏の生活がはじまるのだ。

     三

 高い天井に、豪奢なシャンデリア。
 壁には高名な画家の絵や人気作家のサイン色紙がいくつも掲げられ、正面には美女のモザイク画が店内を見下ろしていた。
 『カフェー・シャノワール』は常時五十人の女給を抱える、カフェーやバーの激戦区である銀座でも一、二を争うほどの大型店だ。『タイガー』や『ライオン』などの老舗を圧倒する勢いで、一九三〇年のカフェー熱を発散している。
 その『シャノワール』で、環は去年の冬から女給をしていた。
 女給には昼から出勤の早番と夕方からの遅番があるが、環は遅番のみにしてもらっている。むろん、探偵事務所を閉めてから出勤するのだ。
 もともとは、女給になるつもりなどなかった。良識ある婦女子は、カフェーはすこぶる不道徳で女給は売春婦同然だという認識を持ち、環も例外ではなかった。だから、銀座で買い物中にスカウトされたときは不愉快ですらあった。
 だが、とある依頼で女給と接触する必要にかられ、短期間という約束で入店した。そこで、カフェーと女給の現実を目の当たりにしたのだ。
 たしかにカフェーに来る客はほとんどが女給目当てであり、彼女たちも客の好意を引くような言動を取っていた。しかしそれは「ふしだら」の一言で済ませられるほど単純な淫猥さではなく、むしろいかにして客から金を落とさせるか、女給たちの意地とテクニックの見せ場であり、その様子はたいへん興味深かった。
 そしてなにより、膨大な量の情報を得られるのだ。
 葛葉が来るまでは助手もいなかった弱小事務所では、環がひとりで足を棒にして調査をせねばならず、当然ごく狭い範囲内しか調べることができない。
 しかし、あらゆる職種、あらゆる地域からやってくる多種多様な人間が出入りする盛り場では、それこそあふれんばかりの情報が行き交う。
 情報収集の場としての有意さに気づいた環は、夜だけの条件で週に四度ほど勤めることになり、昼は探偵、夜は女給という、二重生活を送るようになったのだ。
 
 
「いらっしゃいまし、珠子です」
 環は店では源氏名『珠子』を名乗っていた。本名に似ているので、客に『タマちゃん』と呼ばせて即座に反応できるようにしている。
「やあ、タマちゃん。今日も綺麗だねえ。これ、お土産」
 このところ贔屓にしてくれるサラリイマンが、なけなしの小遣いをやりくりして会いに来てくれた。環はにっこり笑って「いらっしゃい、エノさん。お土産なんていらないのに。来てくれるだけでうれしいわ」と、歯の浮くような台詞を口にする。
 基本的に女給は、無給であることが多い。その場合の主な収入源は、客からのチップである。そのため、彼女たちはいかにして客からチップをせしめるかに文字通り心血を注ぐのだ。
 しかし環には、探偵事務所の収入のほかに家出するときに持ち出した預金通帳がある。だから、ほかの女給と違って自分からチップをねだることはしない。そこがまた欲がなく奥ゆかしいと勘違いされ、入れあげる男が少なくない。ゆえに、環は店でも上位に食い込む売れっ子であった。
 この腰弁もそんないじらしい心意気(?)に惚れ、妻子ある身でありながら月に数度は指名してくれる。実際はあまり情報源にもならない、どうでもいい客ではあったが。
 だが、妻子持ちは抑制が利く分ある意味安全だ。問題は、独身で思い込みの激しい男である。
 独身ゆえに本気で結婚しようと考え、なんとかして陥落させようとするので、こちらも慎重な対応を余儀なくされる。うかつに期待を持たせると、熱を上げられてつきまとわれてしまう。そう、おそらく津本もこのタイプだ。
 腰弁の話に適当に相づちを打っていると、朋輩に呼び出された。
「タマちゃん、お電話よ」
「はあい。お待ちになってね、すぐ済ませるから」
 笑顔一つ残し席を立ち、会計所の横にある電話を取る。
「ああ、タマちゃん。さっき言ってた件ね、うちには来てないみたいよ。ほかの店の子にも聞いてみたけど、覚えがないッて」
 鼻にかかった甘い声。その後ろから、けだるいジャズと女たちの喧噪がかぶさっている。
「そう。忙しいのにありがとう」
「おやすいご用よ、またご飯でも食べに行きましょうね」
 そう言って電話を切った相手は、浅草雷門前のカフェー『メリイ・ウイドウ』の女給である。以前、男絡みで難儀していたところを解決した縁があり、それ以来なにかと情報を寄越してくれる。
 環は、こういった情報源となる女給仲間をたくさん抱えていた。
 彼女らが見聞きしたものだけではなく、そこからさらに知り合いへとネットワークが広がり、結果的に環は電話一本で情報を得ることが可能なのだ。
 その後もたびたび電話がかかってきたが、どれもはずれだった。
 しかしとうとう、上野にある『白百合』の絹枝から「津本というしつこい客が来て、女の子に付きまとっていた」という有力情報を得た。事の顛末も、文代のときとほぼ同じだ。
 やはり、と環はほくそ笑んだ。
 カフェーに通う客は、よほどの非常事態──軍資金が尽きたとか、奥方にこっぴどく締められたとか──がない限りは、その習慣をあらためることはない。ある店を追い出されても、別の店に乗り換える。なんといっても、東京にはカフェーだけでも六千余軒あるのだ、いくらでも選択肢はある。
 そして、粘着気質もまたそう簡単に改善することはない。なぜなら、本人はなぜ女性に逃げられるのかを理解していないからだ。相手が迷惑がるほどしつこく付きまとった事実も、自分では単に熱心に通っていただけだと思っている。
 とすると、津本が『アムール』以外でも似たようなことをやらかしている可能性は、必ずある。環はそうにらんでいた。
 案の定、やつは上野でも前科があった。きっとほかにも出てくるはずだ。
 フロアと電話機とを行ったり来たりしつつ、環は次の行動を練っていた。
 
 
 午前零時ちょうどに、店はシャッターを下ろした。
 結局、今日入った有力情報は『白百合』だけだった。明日以降にあらたな事実がもたらされるかもしれないが。
 さっそく明日の午前中に絹枝に会いに行かねば、と考えつつ円タクを待っていると、電柱の暗がりがゆらめいた。不意を突かれ声も出ないほど驚いた環のもとへ、ひとりの男が近づいてくる。
「タマちゃん、今日はもう終わりかい?」
 なれなれしい口調で話しかけてきた男は、常連客である深石だ。郵便や通信を管轄する逓信省の官吏をしており、年齢は四十を下らないはず。
 いやなヤツに会ってしまった。環は舌打ちしたい気分になった。
 この深石もまた、粘着気質な男だった。もっとも、津本のように毎回通うというようなことはなく、むしろ逆である。たまにしか店に来ず、来たとしてもビール一本きりで何時間も居座り、チップも出さないことがしばしばだ。当然ほかの女給たちからはケチで嫌われており、最終的にチップを欲しがらない環が相手をする羽目になってしまった。
 だが、それだけなら別によい。問題は、店外で会おうとしたがるところだ。
 事あるごとにランデヴーに誘い、その日は都合が悪いと断っても、別の予定を聞き出そうとする。出来る限り無駄金を使わずに女給をものにしようと考えているのが、見え見えである。
 果たせるかな、深石はポケットから紙切れを取り出してきた。街灯に照らされたそれは、三等列車の切符だった。
「明日さ、仕事がない日だろ? 熱海にいい温泉があるから一緒に行かないか」
 環はあきれ返った。明日と言うが、日付は変わっているので実質は今日である。
 打ち合わせもなしにいきなり誘うなど、相手の都合をまったく考慮しない自己中心的な性格が表れている。
 じりじりと間合いを詰められた環は、後ずさりしながら断った。基本的に葛葉以外の人間に対しては猫を被っているが、『珠子』でいる間はさらに数枚重ね着をしているため、自然と口調もしおらしくなる。
「ありがとう、誘ってくれて。でもごめんなさい、明日はちょっと人に会う予定があるの」
「何時ごろ終わるんだ? 終わってからでもいいよ」
 せっかく買った切符がもったいないとでも考えているのだろう、やけに食い下がる。
「遠くまで行かないといけないのよ。帰りは真夜中になるわ」
「……分かった。じゃあ、いつならいいんだ」
「いつって言われても、わたしにも都合があるから……」
「だから、今その都合を聞いてるんだ。予定のない日くらい、分かるだろ? 日程はタマちゃんに合わせてやるから、心配しなくていいよ」
 ──ダメだ、こいつ全然話が通じない!
 なにが『心配しなくていい』だ。論点はそこじゃないだろう。
 環は頭を抱えたくなった。と同時に、さっきから抑えに抑えてきた怒りがわき上がってきた。拒絶されていることに、いいかげん気づけ。
 この手合いには遠回しな表現は伝わらない。ひと思いに、迷惑だと突っぱねようか。
 環はふだん店ではおとなしくしているため、深石も図々しい態度に出られるのだろう。きつく言えば、きっと怖じ気づくはず。
 意を決した環が、かぶっていた猫をかなぐり捨てようとした、そのとき。
「──珠子さん!」
 一瞬自分が呼ばれていると気づかなかったが、ふたたび呼ばれてようやく振り返った。
 そこには、夕方と同じ格好をした葛葉がいた。
 しかし、いつものように背筋を伸ばした凛とした姿勢ではなく、やや猫背のだらしない立ち方だった。
「くず……」
 うっかり名を呼びかけ、あわててその先を飲み込む。対する彼は、顔をくしゃっとゆがめた。
「やっと見つけました。どうして突然ぼくの前から姿を消したんですか?」
「はあ?」
「ぼくと結婚してくれるって約束しましたよね。なのに、ずっと連絡をくれないなんてひどいじゃないですか」
「け──っ!?」
 結婚って、結婚って、いったいなんのことだ。
 動転と羞恥のあまり思わず、
「あたしがいつそんな約束したのよ! だいたい、なんであんたなんかと……!」
と素で叫んでから、すぐそばに深石がいたことを思い出した。深石はテニスの観戦をするように、環と葛葉とを交互に見ている。
 すると葛葉は、ますます泣きそうな顔になり、
「だって珠子さんがお母さんを病院に入れて安心してから結婚したいって言ったから、入院費にって千円も渡したんですよ。まさか、ぼくをだましたんじゃないですよね」
 あなたと結婚するために借金までしたんですよ! とお宮のごとくすがりつく葛葉に、環は心底まごついた。しかしよく見ると、眼鏡の奥でさかんに目配せを送ってきている。
 ──もしかして、葛葉ってば演技してる?
 そう環が気づいたとき、傍らから深石がか細い声で訊ねてきた。
「あの……タマちゃん、どういうこと?」
「えーと、その……」
 ぱちん、と葛葉が瞬きする。その目が、環に決断を促していた。
 ──ええい、こうなったらヤケだわ!
 ぎりっと奥歯を噛みしめると、環は両肩に置かれた葛葉の手を思いっきり振り払った。
「誰があんたなんかと結婚するもんですか。ちょっと優しくしたらいい気になってさ、バッカみたい」
「そんな……、珠子さんが早くカフェー勤めを辞めて結婚したいって言うから、がんばって金を用意したのに。あんまりですよ!」
「知らないわよ、そんなの。証文でもあるんなら別だけどね。あ、お金はもうないから。ぜーんぶ使っちゃったわ」
 そう一気にまくしたて、ふんとそっぽを向いてやった。
 ひどい、ひどいと哀れっぽく繰り返す葛葉を無視し、深石の方に向き直る。ぎくり、と大仰に身構える彼をひとにらみし、
「気にしないでね、深石さん。この人、ちょっと思い込みが激しいから。じゃ、あたしはこのへんで。旅行の件はごめんなさいね」
と、集まりかけた野次馬をかき分け、すたすたと歩き出した。その後から、間の抜けた下駄の音が追いかけてくる。
 そのまま一丁目の交差点を右折し、葛葉がやってくるのを待つ。やがて追いついた彼とともに、客待ちをしていたタクシーに乗り込んだ。
 深石は、追いかけてはこなかった。
 
 
「たいへんご無礼をいたしました、お嬢さま」
 タクシーが発車して早々に、葛葉は深く頭を下げた。いつもの慇懃さに戻っている。
「お迎えに上がりましたら、先ほどの御仁からなにやら無理強いされているご様子でしたので、やむなくあのような不作法をいたしました。お許しください」
 そう、葛葉は環を迎えに来たのだ。
 最初のうちは、『珠子』の名で女給をつとめる環をひどく心配し、口うるさく諫めてきた。しかし意固地な環が考えを曲げないことを悟った彼は、せめて無事に帰宅できるようにと銀座まで迎えに来るようになったのだ。
「いやまあ、助けてもらったのはありがたいけど、ちょっとやり過ぎじゃない?」
「やり過ぎとは?」
「だから、その……」
 結婚がどうの、と言いかけるが、あらためて口にするのも恥ずかしいので止めておく。
 代わりに、
「あれじゃ、あたしがまるで詐欺師みたいじゃないの。どうしてあんな言い方したのよ?」
と聞いた。
「下手に力づくで追い払うと、自分が助けなければという義務感を生じさせる危険があります。それよりは、向こうからこちらを幻滅させるように仕向ければ、自然と興味が失せていくと考えました」
 深石が「自分でなければか弱いタマちゃんを守ってやれない」と騎士道精神に目覚められては、これまで以上に追い払いにくくなる。だがそのタマちゃんが「結婚詐欺の悪女」ならばどうだ。店でおとなしくしていた分、裏切られたと感じるだろう。
「見たところあまり気の強い方ではなさそうですし、今後は珠子さんの被害に遭うまいと、店に来なくなるのではないでしょうか」
「そりゃけっこうだわ。だけど、よその店で毒婦だとかアバズレだとか吹聴されたら困るじゃないの。あたしの印象が悪くなっちゃう」
 環が頬をふくらませて抗議すると、我が意を得たりという顔で葛葉はうなずいた。
「そうなれば、カフェーづとめも断念せざるを得ませんね。あおりを受けて探偵事務所も行き詰まれば、なお結構です」
「……あんた、そういう腹づもりだったわけね」
 食えないやつだ。環は開き直った。
「なんと言われようと、あたしは戻りません。帰ってお父さまに告げ口なさいよ、『お嬢さまはカフェーでいかがわしい女給をやってます』ってね」
「ぼくがそうできないことを、お嬢さまはよくご存じでしょう?」
 環のもうひとつの顔を、葛葉は父には報告していないらしい。ただでさえ探偵行為に頭を痛めているのに、これ以上心痛を与えたくないのだそうだ。実家に知られる前に辞めてくれ、と嘆願されているが、環はことごとく無視している。
 葛葉はため息をひとつつき、こちらに向き直った。
「たしかにぼくは、ご命令に従ってお嬢さまのご帰還を促しております。ですがそれ以上に、お嬢さまを危険な目に遭わせたくないのです」
「危険な目なんて、大げさね。これからは閉店も早くなるんだし、帰りはタクシーなんだから平気よ」
「ですが、さっきのように客に言い寄られる場合もあるでしょう。現に、文代さんは家まで付きまとわれて迷惑していた。お嬢さまの身にも降りかからないとは限りません。女給は常にそういった危険と隣り合わせなのですよ」
「……まあ、そりゃそうだけど……」
 真剣な顔で見つめられ、つい呑まれてしまう。
「おそれながら、お嬢さまにはそういった危機感があまりにも希薄です。もしお嬢さまになにかあれば、ぼくは……」
 車は京橋を抜け、日本橋界隈へと入る。ネオンサインがまばゆい銀座とは違い、会社街の日本橋は夜中となると人気も絶え、辺りは真っ暗になる。
 闇が浸食してきた車中で、葛葉の眼鏡のレンズだけが淡く光っていた。
 真摯な眼差しに射すくめられたように、指先ひとつ動かせなかった。
 環の心拍数が、たちまち跳ね上がる。
 ──やだ……。なんであたし、こんなにドキドキしてるの?
 そう自問したのと同時に、形のよい唇が開かれた。
「……大旦那さまと旦那さまに合わせる顔がなくなります」
 どっ、と肩に重しがのしかかる。一気に疲れが襲ってきたようだ。
「どうせ、そんなことだろうと思ったわよ」
 はあ、と肺を空にするほどため息をつく。
 この忠義一徹野郎は、それしか考えてないのだ。環のことなんて二の次なのだ。
 急にバカバカしくなり、後部座席の背もたれに身体を投げ出した。
「ぼくの使命には探偵業務の監視のほかに、お嬢さまの身辺警護も含まれています。起こりうる可能性のある危険は、徹底的に排除する必要があります。ですから……」
「あーもう、うるさいうるさい!」
 葛葉の小言を聞かぬよう耳をふさぎ、何度も首を振る。やがて根負けした葛葉が黙り込むが、環は耳を押さえたまま目を閉じた。しばらく車の振動に身を預けていたが、ふと先ほどの様子を思い出して軽く嘆息した。
 ──それにしても、もう少し格好のいい助け方があるでしょうに
 よっぽど指摘してやろうかと思ったが、いちいち口にするのも情けないので言わなかった。
 半泣きで女にすがりつくなど、あまりにもみっともなさすぎる。たまたま小心者の深石だったからよかったものの、屈強な相手ならどうなっていたことやら。
 彼はさっき身辺警護も使命のうちだと言ったが、これでは用心棒にもなりゃしない。
 ──こんなことで、大丈夫なのかしら……
 環はふと、今後に不安を抱いた。

     四

 一寝入りしたのち、『白百合』の絹枝から話を聞き出した環が事務所に戻ってくると、留守番をしていた葛葉から何人かの女給からの伝言を受けた。にらんだとおり、津本はよそでも似たような付きまといをして“おはきもん”になっていたらしい。
「お嬢さまは、文代さんが津本のもとにいるとお考えですか」
 絹枝から聞いた住所を地図で確認していた環は、視線を落としたまま答えた。
「まだ分からないわ。ただ、なんらかの形で文代さんの失踪に関わっているのは、確実だと思う」
 そう、津本はきっと文代と店以外で連絡を取り合ったはず。そうでなければ、失踪後来店しない理由がつかない。
 その連絡を取った時期は、おそらく売上金盗難事件の前後。
「ここで想像たくましくしても始まらないわ。あたしは今から津本の家まで行くから、葛葉は留守番してて」
 地図を折りたたんで立ち上がった環に、葛葉は大きく首を振った。
「お伴いたします」
「事務所が空っぽになっちゃうじゃないの。なんのための助手なのよ」
「お嬢さまおひとりでは、危のうございますから」
 やけにきっぱりと言い張る葛葉に、環は呆れ声を上げた。
「真っ昼間よ、危ないことなんてありゃしないわ」
「昼間だから危なくない、という油断こそがすでに危険なのです。見知らぬ土地に若い女性がひとりで出向くのは、目隠しをして外を歩くのと同じくらい用心するに越したことはありません」
 いちいち理屈っぽい。環は彼のこういう部分が苦手だった。
 一言文句を言ってやろうと思ったが、やめた。どうせまた理詰めで押し切られてしまうのだ。
「分かったわよ。好きにすれば」
 そう言い捨てると、環は先に事務所を出た。
 
 
 津本は豊多摩郡中野町に住んでいるという。九段下から円タクで向かい、着いたのは午後四時すぎだった。
 中央線がどんどん西へ延びていったため、このあたりは新興住宅街として発展していった。とはいえ、田園風景もまだまだ残っている、のどかな地域である。
 それにしても、毎夜カフェーで豪遊する計理士が、こんな郊外に住んでいるとは。新宿には近いが、上野や浅草には通いにくかろう。
 地図片手に住所を探すと、『青柳荘』という下宿屋があらわれた。築五十年は経過しているだろう、うっかりもたれたらそのままつぶれてしまいそうな二階屋だ。環と葛葉は顔を見合わせたが、ともかく訊ねてみることにした。
 大家に聞くと、たしかに津本栄介という名の男がここに住んでいるらしい。だが情報と符合しているのは名前だけで、実際の職業は印刷工、おまけに家賃も滞納しているという。商大はともかく、計理士はどこへ行ったのだ。
 客の中には、女給からちやほやされたいがために嘘の経歴を名乗る者もいる。どうやら津本も、そのひとりらしい。名門大学出身の高給取りとくれば、女たちが放っておかないと考えたのだろう。まあ、行動に難ありのせいで御利益もないようだが。
 大家は続けて「数日前から若い女性が寝泊まりしている。娘はほとんど外出することもなく部屋にこもりきりで、ごくたまに見かけても顔色が悪く終始うつむいている。津本からは病気の妹だと説明を受けている」と証言した。
 となると、あの部屋には文代がいるかもしれない。二階の窓を見上げつつ、一気に踏み込みたい欲求と戦った。
 環と葛葉は向かいの神社の境内で、津本を待つことにした。今日は月曜日のため、おそらくまだ仕事中だろう。あと一時間もすれば帰ってくるはず。
 だが、その一時間は思いのほかつらかった。残暑厳しい九月の西日をもろに受けるが、日陰に移動すると下宿屋の入口が見えない。用意のいい助手が折りたためる引締日傘を差し出したので、それで日差しをさえぎった。
 環は日傘をくるくる回しながらぼやいた。
「こういうとき、動く事務所があると便利よね。張り込みするのも楽だし、東京中どこへでも行けるし。あたしも欲しいなあ」
 欧米のモータリゼーションの波を受け、最近では自家用車もかなり普及しているが、それでも一般庶民には簡単に購入できるような代物ではない。二宮家も二台所有しているが、パッカードは父用、クライスラーは母と環とで兼用である。自分専用の車など、高嶺の花だった。
 買えないと分かっていても、暇と暑さを持てあまし、つい夢物語を続けてしまう。
「車っていくらくらいするのかしら。フォードならお手頃かな」
「たしかにほかの輸入車に比べれば格安ですが、それでも二、三千円はしますよ。個人で買うには厳しい金額ですね」
 さすがにこたえるのだろう、流れる汗をハンケチでぬぐいつつ、葛葉は答えた。なにしろ襟の詰まった長袖シャツに着物と袴、暑くないわけがない。この時期くらいは着流しにすればいいのに。
「あとは運転手免許を取らないとね。試験は難しいのかしら」
「お嬢さま自ら運転されるのですか?」
「ひとりで好きなところへ行きたいから、自分専用の車が欲しいんじゃない。運転手付きなんて真っ平よ」
「ですが運転は、ご想像以上に危険を伴うものです。ゴーストップを守らない人も多いし、マナーの悪い運転手がスピードを出しすぎて接触するおそれもあります。それになにより、慣れが必要です。やはり、運転手を雇われた方がよろしいですよ」
 注意点がやけに具体的だ。
「葛葉、もしかして免許持ってるの?」
「はい、仕事で必要かと思いまして。実際はあまり使う機会がないのですが」
 驚いた。自家用車を所有している人も少ないが、同じように免許を取得している人もまた少数なこのご時世、職業運転手以外に免許取得者を見るのははじめてだ。
 環は良案をひらめき、ぱんと両手を合わせた。
「ちょうどいいわ、葛葉が運転してよ!」
「ぼくが、ですか?」
「そう!」
 葛葉がハンドルを握る姿を想像してみる。今の格好ではちょんまげ姿の武士がチャールストンを踊るくらいちぐはぐだが、黒い背広にネクタイでも締めさせれば、なかなかモダンに決まりそうではないか。
 うきうきと勝手な想像をしている環の横で、彼はあくまで真剣に考え込んでいる。
「ここ数年運転しておりませんので、ご辞退申し上げます」
「ええー、つまんない。そんなの、うちの庭でちょちょっと練習してくればいいでしょ。どうせカーレースができるくらい広いんだからさ」
「他ならぬお嬢さまのお命を預かる重大な役目ですから、やはり熟練した運転手におまかせしなければ。ぼくでは力不足です」
「もう、お堅いわねえ。たとえばの話なのに」
  ぶうと頬をふくらませ、環はむくれた。
「葛葉が運転してくれるんなら、いろんなところに行けるのになあ」
「はあ……」
「あたしは助手席に座って、窓を開けるの。もう少し涼しくなったら、風も気持ちいいだろうな。お弁当を持って高尾山へ紅葉狩りとか行ってみたいわ」
 二宮家には軽井沢に別荘があるが、周辺には華族や富裕層ばかりが固まっている。避暑地だというのに、やれ晩餐会やらダンスパーティーやらテニスやら、東京と変わらぬ付き合いが多くてちっともくつろげない。そんなところよりは、庶民的な高尾山でハイキングをする方がよほど楽しそうだった。
「高尾山はともかく、なぜ助手席なのですか? 普通は後部座席ですが……」
「だって運転する気分だけでも味わいたいもん。助手席に座れば前がよく見えるでしょ。それに、葛葉が運転するところを間近で見たいのよ」
 とくに深い意味はなく、思ったまま口に出したのだが、急に葛葉が黙り込んだ。
 また「前面に座ると、万一事故が起きたときフロントガラスが割れて危のうございます」とでも説教するつもりだろう、と思いつつ、隣をうかがう。
 すると彼は、なぜか落ち着きをなくしていた。しどろもどろといった口調で、
「……やはり、後部座席にお乗りください」
「どうして隣に座っちゃダメなの?」
 素朴な疑問をぶつけると、彼はさらに口ごもった。
「あまり観察されては、運転に集中できそうにないので……」
「やあね、邪魔したりしないわよ。あんたがハンドル操作を誤ったら、あたしだって危ないんだから」
「それはそうですが……」
「だいたい、あたしがしたいのはドライブなのよ。ただの送迎ならそこらへんの運転手でもいいけど、気楽なドライブだからこそ葛葉と行きたいんじゃない」
「や、あの、それは……。恐れおおいことではありますが……」
 いつもはきはきしゃべるくせに、やたら歯切れが悪い。よく見ると、少し顔が赤いようだ。
 ──ヘンなヤツ。なにを照れることがあるのよ?
 単純に、雇われ運転手とふたりで遠出など、息が詰まるだけで楽しくもなんともない。女学校時代の外出で、それはいやと言うほど味わった。だが葛葉なら気心が知れているため、肩肘を張る必要はない。
 そういうつもりで言ったのだが。
 環は首をひねったが、それ以上突っ込むことはしなかった。代わりに、
「ねえ、仕事に使うから免許取ったんでしょ。じゃあ、山口でなんの仕事してたの?」
と聞いてみた。
 すると葛葉は、さっと真顔に戻った。
「法律の勉強をしに上京したってことは、検察官や弁護士の元で助手とかしてたんじゃないの。どうなの、教えてよ」
「……いえ、全然違う仕事です」
「じゃあなによ。サラリーマンとか?」
「まあ、いろいろです」
 そう言って彼は立ち上がり、石垣の影に隠れるように座り直した。
 ──なんだか、変なごまかし方ね
 環はいよいよ不審を覚えた。
 葛葉は、出身大学も教えてくれない。なんど訊ねてもことごとくはぐらかされるのだ。そもそも、あまり自身の身の上についても話さない。謙遜のつもりか「お嬢さまのお耳を汚すだけです」と逃げてしまう。普段あいまいな物言いをしない分、靴中の石みたいな違和感を覚えた。
 あまりに過去を話したがらないため、当初はすねに傷を持つ身なのでは、と勘ぐったこともある。山口にいられないような不祥事を起こし、東京に逃げてきたのか、と。しかしそんな危険な人物を父や祖父が書生として援助するはずもない。父を問い詰めても、身元は保証済みだという答えしか返ってこなかった。
 悪人では、ないと思う。たった一年といえど探偵稼業をしていると、腹に一物抱えているかどうかくらいは話しているうちに分かってくる。
 彼は、環を害するような男ではない。断言してもいいだろう。
 だが、どうしてこうも過去を隠したがるのだろう。

     五

 そのとき、石垣から顔だけ出して往来を見ていた葛葉が振り向いた。
「来ましたよ、あれじゃないでしょうか」
 さっそく環も腰を上げ、葛葉の下にもぐり込んで目をこらす。こちらに向かい工員姿の男がやってくるのが見えた。國枝や絹枝から聞いていた容姿の特徴と一致する。
「まだダメよ。言い逃れできない決定的瞬間を押さえるまではね」
 津本はくたびれた鞄と身体を引きずるように、下宿屋の外階段を上っていく。そっと神社を抜け出したふたりは、足音を立てぬように下宿屋に近づき、下からその様子をうかがう。
 津本がある部屋の前で立ち止まったのを見計らい、一気に階段を駆け上がった。突然の襲撃者に驚いたらしい津本に、探偵事務所の名刺を差し出す。
「津本栄介さんですね。わたくし、二宮探偵事務所の二宮環と申します。少しお話をうかがいたいんですが、よろしいですか」
 できるだけ丁重にあいさつしたつもりだったが、津本は探偵と聞くやいなや表情をこわばらせた。
 なにか、思い当たる節があるのだ。そう環は直感した。
 硬直していた津本は、すぐに我に返った。そしてこちらをにらみつけ、叫んだ。
「……やっぱり来たか! なにも話すことはない、とっとと帰れ!」
 しかし元来気の弱い性格なのか、怒鳴りつけるというよりはむしろ悲鳴に近い声である。
「待ってください。『やっぱり来たか』って、わたしたちが来るのを分かってらしたんですか? もしかして、文代さんからお聞きになりましたか?」
 いちかばちかでカマをかけると、果たせるかな津本はぎくりと肩をそびやかせ、背後のドアを振り返った。
 やはり、ここには文代がいるのだ。そして彼女をかくまっているのだ。
 確信を持った環が扉の向こうへ呼びかけるが、津本は立ちふさがって邪魔をした。
「しつこい奴らだ、帰ってくれ!」
 津本は持っていた鞄から、布袋のようなものを取り出してなにやら掴みだし、こちらに投げつけてきた。反射的に身構えた環の視界が、一気に暗くなる。暗幕でもかぶせられたのかと錯覚するが、そうではなかった。
 葛葉が腕を伸ばし、環を胸の中へ包み込んだのだ。右腕はマントのように環の頭上にかざされている。
 目の前に、性格そのままに第一ボタンまで留められたシャツの襟元がある。ほんの一瞬呆然とした環だったが、すぐに抱きすくめられている事実に愕然とし、次いで言いようのない羞恥に襲われた。
「ちょ……、葛葉ってば!」
 こんなときに何を、と焦って腕の中から逃れようとするが、その前に頭上をおおっていた紺絣の袖がひるがえった。白い粉末が飛び散ってはじめて、彼が津本の攻撃から守ってくれていたことに気づいた。
 白い結晶が、手の甲に落ちてきた。どうやら塩のようだ。
 葛葉は丸めていた背をしっかり伸ばし、津本に向き直る。その毅然とした態度と厳しい表情に、津本だけでなく環もまた圧倒されてしまった。
 そのすきに、葛葉は無駄のない動きで津本の背後に回り、袋を持った手首をつかんでひねり上げた。痛みに身をよじる津本を掴まえたまま「早く中へ」と言った。
 意を受けた環はひとつうなずき、まだ鍵の開いていないドアの前で大声を張り上げる。
「文代さん、いらっしゃるんでしょう? 國枝さんから依頼を受けた探偵の二宮です!」
「あ、おい! よせ!」
 津本がなにやらわめくが、葛葉に後ろ手につかまれ動けないらしい。環は繰り返し呼びかけた。
「なにか事情がおありなんでしょう? でなければ真面目に働いていたあなたが、こんなことをするはずがありません。それに、捕まえたいだけなら警察を呼べば済みます。そうしないのは、あなたとお話がしたいからなんです」
 本心からだった。
 警察に引き渡せば、彼女から事情を聞くことができなくなる。そうはしたくなかった。
 しばらくの間ののち、かすかな解錠の音とともに木製のドアが開いた。玄関には、縞模様の単衣を着た娘が立っていた。髪はひとつに編んで、肩から胸に流している。
「ここでは目立ちますから、どうぞ中へ……」
 そう促され、三人は室内へと入った。
 
 
 六畳一間に押し入れ、ごく小さな流し。散らかった部屋の隅に女物の着物がたたんで置かれている。
 せまいちゃぶ台を挟んで、四人は座った。正面奥に文代、その前に環。すこし離れたところに部屋の主である津本と、彼を監視するような形の葛葉。
 はじめて会う文代はお世辞にも美人ではないが、どこか夢二の絵を思わせ、守ってやりたくなるような儚さがある。男の中には──津本など──庇護欲をそそられる者もいるに違いない。
 そして同時に、垢抜けない印象も受けた。どう見ても、大金を奪って逃走した大胆不敵な女白波っぽくはない。
「率直にお聞きいたします。お店から売上金を盗んだのは、あなたですね」
 環の問いに、文代は肩をすくませた。しばらくうつむいていたが、やがて小さくうなずく。
「そうでしたか……。店長はたいへんお困りです。お金を返してくれれば、穏便に済ませてもいいとおっしゃっています。返してくださいますか?」
 重ねて訊くが、文代は黙り込んでしまう。
 事情をなにも聞かされていないらしい津本が狼狽しつつも口を挟もうとするが、葛葉がそれを無言で制した。
 ややあって、
「……ないんです」
と、文代が答えた。
「ない、とは?」
「もう、手許にないんです」
「一銭も?」
 こくん、とうなずく。うつむいているため表情はよく分からないが、どこか諦めている節がある。
「千円というと、一週間やそこらで使い切るには厳しい金額です。なにか大きなものを買われたのですか? それとも……どなたかに渡されたんですか?」
 最後まで聞かないうちに、文代ははっと顔を上げた。
 図星だ。
 機を逃さず、続ける。
「どなたでしょう。家族、あるいは恋人……ですか?」
 環の言葉を聞いた文代の目に、みるみる涙があふれる。色を失った一重まぶたを濡らした涙は、こけた頬へと伝ってゆく。
 たまらずたもとで顔をおおう姿に、環は予想が当たったことを悟った。
 しばらく泣いていた文代は、しゃくりあげながら言った。
「すみません、わたし……。もう、どうしたらいいのか……」
「相手は誰なんですか? それが分かれば、こちらで探して金を取り戻します」
 すると、文代は首を振った。
「……分からないんです」
「え?」
「どこの誰か、まったく分からないんです」




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