CODE R.I.P. 2 プライドと偏見 ※試し読み

     一

 高邑真琴は自分のデスクに着くなり、辺りを見渡した。
 始業開始十五分前。デスクの三分の二は埋まっている。刑事部屋全体に視線を一周させたのち、すぐ右隣の机に落とした。
 まだ出社していないらしい。もともと朝一番でも遅刻すれすれでもない、普段ならそろそろ来るはずだ。
 席に着こうと椅子を引いたとき、スニーカーの紐がほどけかかっているのに気付いた。机の下にもぐりこむようにして結び直す。
 刑事になって五年、仕事着はいつもジーンズにスニーカーというラフな格好だ。もう何年スカートをはいていないだろう。覚えている限り、巡査部長に昇任した際の式典で、正装を着用したのが最後のはず。
 真琴が元の体勢に戻ったと同時に、廊下につながる扉が開いた。大柄な身体がドアをくぐるように入ってくる。警察官は職業柄体格のよい者が多いが、ドアをくぐらねばならないほど長身となるとそうはいない。
 黒いコートのボタンを外しながらこちらへ向かってくる男に、真琴は声をかけた。
「おはよう、羽柴くん」
「ん、ああ。おはよう」
 最後のボタンを外した羽柴秀明は、何気ない調子で答えた。
 はじめて紹介されたとき、四歳上だと聞いたので敬語を使おうとしたのだが、高卒の真琴とは警察学校の入校期が同じで階級も一緒ということが分かったため、彼の方からタメ口でいいと言われたのだ。
 コートの前を完全にはだけた羽柴は、いったんバッグを自席に置いてからロッカールームへと向かう。聞きたいことがあったが、戻ってくるまで待つとしよう。
 真琴は席を立ち、給茶器の置いてあるコーナーへと足を向ける。紙コップをプラスチック製のホルダーにセットし、ホットコーヒーのボタンを押す。甘いものは嫌いではないが、コーヒーはブラックと決めていた。
 湯気の立つカップを手に戻ったと同時に、コートを置いてきた羽柴もまた自席に着いた。
「どうだった、昨日の試験は?」
 並んで立ったときの身長差は、約二十五センチ。むろん測ったわけではないが、きっとそれくらいはあるだろう。
 かといって座ってもやはり見上げねばならない。はじめは首が痛くなったが、最近ではもう慣れっこだ。
「なんとも。とりあえず埋めるべきところは全部埋めといた」
 苦虫を噛みつぶす、とまではいかない、さしずめ目の前に突き出された程度の微妙な顔つきで、彼は答えた。
「まあ、引っかかるとしたらまずは面接だな」
「なるほど」
 真琴はとくにフォローも入れず、うなずいた。
 なんとなく分かる。面接官におもねったり、自分をよく見せようとする柄ではなさそうだから。
 湯気の立つコーヒーをすすったとき、始業開始のベルが鳴った。


 平凡な一日は、あっという間に過ぎた。
「羽柴くん、きょうなんか用事ある?」
 おととい管内で起きたちょっとした傷害事件の調書を上司に提出してきた真琴は、同じように書類を片づけていた羽柴に問うた。
「いや、とくには」
「せっかく試験終わったんだし、飲みに行こうよ」
 声が上ずらないよう、ごく自然に誘った。つもりだった。別にはじめて誘うわけじゃなし、今さら緊張するのもヘンなのだが。
「そうだな……」
 羽柴は考えるような素振りを見せる。しかしそれも束の間、
「いいよ。ただし、あんま金ねえから鶏吉でな」
と、北都署の面々がひいきにしているリーズナブルな焼鳥屋の名を出して応じた。
「じゃあ、あたし上着取ってくるから……」
 そう促しかけたとき、たまたま通りがかった後輩の紺野巡査が首を突っ込んできた。すでに帰り支度は万端だ。
「あれ、鶏吉行くんスか」
「おう。紺野も行くか?」
「いいっスか。あそこ、新しいメニュー出たみたいで行きたかったんスよー」
 真琴が口を開く間もなく、羽柴は勝手に紺野を誘ってしまった。
「そうと決まれば、残業入る前にとっとと行きましょうよ」
 万事において調子の良い紺野は、憮然とする真琴と羽柴をせき立てた。
 ──まあ、ふたりっきりよりはいいけどさ
 口数の少ない羽柴とでは、きっと間が持たないだろう。自分もそれほど饒舌なほうではない。
 小さく嘆息しつつ、真琴もまた帰り支度をはじめた。


 今日は十二月四日、世間一般で言う給料日は終わったばかりだが、年末ということもあってか鶏吉はほぼ満席だった。三人は運良く奥まった個室席を陣取ることが出来た。
「これ受かったら、羽柴さん警部補か。いやー、雲の上っスよ」
「まだ合格って決まったわけじゃねえよ。それに雲の上ってのは、警視とか警視正とかその辺のレベルだろうが」
「でも二月には捜一に戻るんでしょ? やっぱ俺から見たらすげーことですよ」
 おしゃべりな紺野相手だと、普段ぶっきらぼうな羽柴もつられて口が軽くなるらしい。真琴との会話の十倍くらいは話している。
 真琴は二杯目のビールを飲みつつ、ふたりの会話を聞いていた。
「俺も捜一行ってみたいなー。羽柴さん、引き上げてくださいよ」
「悪いが、俺には人事権はないんでな。自分がいつまでいられるかもあやしいとこだ」
 冗談めかした紺野の台詞に、羽柴は苦笑する。 
「紺野さ、あんた捜一行きたかったの? 初耳だよ」
 真琴が横やりを入れると、紺野はたちまちふくれっ面を作った。すでに三杯目の酎ハイを手にした彼の頬は、赤く染まっている。
「そうっスよ。高邑さんこそ、一回話蹴ってるじゃないスか。俺なんて完全スルーだったのに」
「だって面倒じゃん。休みもろくに取れないって聞くしさ」
 それに出世争いに興味ないし、と言いかけたが、いずれ戻る人間が同席していることを思い出し先を飲み込んだ。
 真琴に捜査一課への異動の話が持ち上がったのは、去年のことだ。
 捜査一課と言っても羽柴のいた強行犯捜査係ではなく、誘拐・人質立てこもり・企業恐喝などに対応する特殊犯捜査係、通称SITと呼ばれる部署である。
 特殊犯捜査係は伝統的に女性捜査員が在籍する割合が多いという。ひとたび立てこもり事件が起こった際、犯人との交渉窓口に女性を指名されることが多々あるからだ。また、誘拐事件だと被害者の母親役を務めたりすることもある。
 異動の話を聞いたとき、真琴はまず強行犯捜査係でないことに落胆した。刑事としての自分を求められているわけではない、多少肝の据わった女なら誰でもいいのだ、と解釈した。
 もちろん、特殊班に在籍する女性刑事がみなそうだとは言わない。しかし、誘拐や立てこもりにたずさわった経験のない真琴に話が来るということは、やはり能力を買われた訳ではないと思うのだ。
 それに、生まれ育った北都署管内にも愛着があった。
 強行犯係とは名ばかりで、事件といえばケンカや器物損壊などが大半で、むしろ盗犯係の出番の方が多い。それも強盗みたいな物騒なのではなく、置き引きや車上荒らしのようなケチな事件ばかり。当然大事件とも無縁で、捜査本部なんて十年単位で開設されていない。きっと二十三区内でも指折りの平和な地域だろう。
 それでも、真琴はこの町が好きだった。
 平和なこの町を離れたくなかった。
 むろん、いつかは定期人事異動でよその所轄へ異動になる。それは仕方がないし、その場合は精一杯仕事をしようと思っている。
 しかし今、別に自分じゃなくてもよい部署へわざわざ行く気にはなれなかった。
「面倒って、そんなレベルの話じゃないですよ。だって捜一は特別なんだから。高邑さん、欲なさすぎっス。あーあ、俺なら二つ返事でオーケーしてがんばるのになー」
 紺野は唇をとがらせる。
 凶悪犯に日々立ち向かう捜査一課は警察の花形、若い刑事なら誰でも夢見る。
 まだ二十七歳で血気盛んな紺野もまた、エリート集団「捜一」に憧れるのだろう。
 その心意気をバカにするつもりはない。
 ただ、真琴にはその気がないというだけだ。
 なおも絡もうとする紺野を、羽柴は制しかけた。
「紺野、おまえちょっと落ち着け──、っと」
 言い終わらないうちに、羽柴の携帯が鳴った。色気も素っ気もない、携帯内蔵のアラーム音。
 真琴に目配せすると、彼は席を立った。ふすまを閉める寸前で通話ボタンを押し、「もしもし」と応じる。
 残された真琴と紺野の間に、わずかながら沈黙が降りた。見計らったように、店員が焼き鳥の盛り合わせの皿を持ってきた。
 先に沈黙を破ったのは紺野だった。
「仕事ですかね?」
 羽柴に出動の電話が入ったのならば、ふたりとも出なければならない。
 しかし、真琴は先ほどの目配せの意味を正確に汲んでいた。
「違うと思う。たぶん──」
 いったん言葉を切り、ビールを流し込んだ。ややぬるめの感触が喉を滑り落ちる。
「彼女でしょ」
「羽柴さん、彼女いたんスか」
「あんまりくわしく聞いてないけど、いるっぽい」
 実は真琴も直接訊ねたわけではない。
 たまに電話やメールのやり取りをすることや、そのときの微妙な表情の変化などから、なんとなく察しをつけただけだ。
「へえー、どんな人だろ。写真見ました?」
「見てない」
 つい、声音がつっけんどんになってしまう。
 いけない、真琴は我に返った。
 しかし紺野は気付かないらしく、ネギマの串をかじりながら続けた。
「羽柴さんっていくつでしたっけ? 三十は超えてますよね」
「たしか三十三だったと思う」
「ふうん。結婚しないのかなあ」
 もっともな疑問を紺野は口にする。
 真琴は答えず、ジョッキを空にした。テーブルの隅に押しやると、トートバッグからタバコ入れを取り出し、中から一本抜いた。
 ライターで火をつけたのと同時に、羽柴が席に戻ってきた。
「羽柴さん、今の電話って彼女からですか?」
「あ?」
 直球すぎる紺野の質問に、羽柴はやや戸惑いの色を見せた。
 なんて答えるのだろう。真琴の中に、好奇心が真夏の積乱雲のようにわき上がる。
「まあ、そんなとこだ」
「名前は? 職業は? どこで知り合ったんですか? 芸能人で例えると誰に似てますか?」
「──そんなの、どうでもいいだろ」
 羽柴は右手で口許をおさえ、あさっての方を向いた。
「写真とかないんですか?」
 紺野はあきらめず、彼がまだ手にしていた携帯のディスプレイをのぞこうとする。こいつは基本的に遠慮というものを知らない。
「ねえよ、そんなの」
 若干あわてたようすで、羽柴は携帯をポケットにしまった。照れ隠しか、代わりにタバコを取り出す。
「じゃあ歳だけ」
 なにが「じゃあ」なんだか。真琴は煙を細く吐き出しながら呆れた。
 紺野のしつこい追求に負けたのか、それとも年齢くらいならいいと判断したのか、羽柴は、
「……二十九」
と、ぼそりと答えた。
 同い年か。真琴の胸にいかんともしがたい感情が起こった。
 ここ数ヶ月間、霞のようだった存在が、急に生々しい形を取ったように思える。
 女性誌のグラビアを飾りそうな、パステルカラーのワンピースにふわふわロングヘア。さもなくば、男受けしそうな可愛らしい制服姿のOL。そんな映像が、何パターンも浮かんでは消えた。
 身だしなみなど無縁な自分とは正反対な、いかにも女らしい、可憐な女性。
 なぜそんな女性像が思い浮かんだのかは分からない。
 分からないがきっと、普通の男が付き合いたがる女は、自分のような男女ではないはずだ。だから、おのずと正反対のタイプを思い浮かべたのだろう。


 真琴はこれまで、仕事一本で生きてきた。
 もともと身を飾ることに興味が薄かったのもあり、ろくすっぽ化粧もしなかった。あまりの色気のなさに、たまに帰省すると実家の母親が嫁ぎ先の心配をするくらいである。コンプレックスが全くないと言えば嘘になるが、女扱いされないことの方がずっと楽だった。
 しかし、これでよいのだ。
 男と同等に刑事稼業をするのに、“女”という性は必要ない。むしろ、邪魔なくらいである。
 姿形で媚を売るような真似は、絶対にしたくない。これまでもそうしてきたし、今後もそうしていくつもりだった。
 だから、羽柴の彼女がどんなタイプであろうと、自分には関係のない話だ。
 自分は、羽柴の“相棒”だから。
 そう割り切っていたつもりだったが、やはり気にはなる。目の前を通り過ぎる女性像を追い払いつつ、ふたりの会話に聞き耳を立てた。
「へえー。どこで知り合ったんですか?」
 紺野はさらに追求の手を伸ばそうとしたが、羽柴はその手を巧みにすり抜けた。
「ヒミツ」
「いいじゃないですか、ちょっとくらい。もしかして、言えないような相手なんスか?」
「それじゃ聞くが、おまえの考える『言えないような相手』ってどんなんだよ」
「えー……、なんだろ。行きつけのキャバクラのねえちゃんとか?」
「そりゃ彼女って言わねえだろ。つーか、おまえは俺をなんだと思ってんだ」
 いつの間にか、すっかりペースが逆転している。さすがに一筋縄ではいかない。
 あわよくば、と考えていた真琴も、あきらめることにした。半分以上吸ったタバコをアルミの灰皿の上でもみ消し、
「そろそろ出よっか。明日も仕事だしさ」
 先ほど想像した顔のない女性像が、またしてもふんわりと真琴の脳裏をよぎった。

     二

 藤井祐希は、通話の終わった携帯の液晶ディスプレイをぼんやりと眺めていた。
 小さくため息をつくと、祐希は携帯を折りたたんだ。ジャケットの内ポケットに突っ込み、人気のない廊下にかかとを踏み出した。
 明かりが漏れるドアを押し開き、同僚と額を付き合わせていた上司に向かい声をかける。
「嶋元主任、お先に上がらせてもらってよろしいですか?」
 行儀悪く長机に腰を下ろしていた嶋元聡警部補は、こちらに向けて首をねじった。
「ああ、お疲れさん。気ィつけてな」
「はい。お先に失礼します」
 机の隅に置いていた荷物とコートを手にし、祐希は残った同僚たちにも軽く頭を下げた。
 薄暗い廊下に、自分のたてる足音が響く。階段を降りかけたとき、下から登ってきた男と目があった。
「藤井さん、上がるの?」
「ええ」
「もう遅いから駅まで送ろうか。女の子の一人歩きは危ないよ」
 男は今回の捜査本部でコンビを組むことになった、日本橋署の若手刑事・佐武巡査部長だった。見上げてくる視線には、心配よりも別種の色が浮かんでいるように思えた。
「いえ、平気です。大通りなら安全ですし」
「でも……」
「失礼します」
 まだなにか言いたげな男の横をすり抜け、祐希は足早に階段を降りた。
 ロビーを抜け、重いガラス戸を開けると、十二月の寒風が容赦なくぶつかってきた。


 師走の永代通りは、さすがに夜の十時近くなってもヘッドライトであふれていた。
 祐希はトレンチコートのポケットに両手を入れ、地下鉄の駅へと向かった。佐武のことを考える。
 ──“女の子”って言うなっての、まったく……
 彼は、祐希がもっとも苦手とする部類に属した。
 捜査本部が設置され、本庁と所轄の捜査員でコンビを組むのは慣例であるが、多くの場合ベテランと若手という組み合わせになる。所轄のベテランと本庁の若手、もしくはその逆。
 しかし今回の事件は年末の忙しい時期でどこも人手不足ということもあり、人員の確保が不十分だった。そのため、本来ならベテランと組むはずが、若手同士のコンビとなってしまったのである。
 なにも若いから苦手というわけではない。自分に対する佐武の態度が、勘に障るのだ。
 組んですぐ、たまたま前を通りかかった日本橋署の刑事部屋で、佐武が同僚と『捜査本部が設置されている間に、本庁の女刑事を落とせるか』と賭けているのを耳にした。
「四六時中一緒だし、連絡用にとちゃっかり携帯番号も聞き出した。ヤれるところまでは無理でも、お近づきにはなれるかも」などと、笑いあっていた。
 それ以降、祐希は佐武に対して防衛線を張ることに決めた。なにかにつけ接触を試みる相棒に、肘鉄を食らわせ続けた。
 仕事だからコンビは続ける。しかし、いい結果は期待できそうにもなかった。
 事件のことだけに集中したいのに、こんなよけいなことに煩わされるなんてバカらしい。
 ぽっかりと口を開けた地下鉄駅への入り口を足早に降り、乗車カードを自動改札機にやや乱暴に叩きつけた。表示された残高を見て、もうそろそろチャージしないと、と思いつつ、ホームへと降りるエスカレーターに乗った。
 真っ暗なひとりきりの部屋に帰りたくなかった。かといって、呼び出すわけにもいかない。さっきの電話で、彼が飲んでいる最中であることは承知していた。
 しばらく考えたのち、祐希はある場所へ寄り道することにした。
 この時間なら、まだ宵の口だろう。


 重厚な木のドアを開ける。来る途中までの猥雑さが嘘のような、穏やかな空間が凍えた身体を包み込んだ。
 ほっと一息つくと、祐希はコートを壁に掛け、空いていたカウンター席に腰を下ろした。
「いらっしゃいませ、藤井さん」
 耳に心地よいアルト。甘くて強い酒のような美貌の女バーテンダーが、にっこりと迎えてくれた。
「こんばんは」
「急に冷え込みましたね、お身体、大丈夫ですか?」
 バーテンダーは温かいおしぼりを手渡す。受け取った指先に、熱い血が急速に流れるのを感じた。
「そうですね……。今はまだ気力でなんとか」
 そう答えると、バーテンダーはふふっと笑い、
「では、当店オリジナルのモスコミュールはいかがです? とてもクセのある味ですけど、ショウガがたっぷり使われてるので風邪の予防にはもってこいなんですよ」
と、カウンターの内側に置かれた大きな広口瓶に視線を向けた。
 少し色づいた液体が満たされ、底にいくつものショウガが丸ごと沈んでいる。ちょうど、梅酒の梅がショウガになったような感じだ。
 祐希の飲んだことがあるモスコミュールは、甘いジュースのようなものだ。好奇心に惹かれ、注文してみる。
 やがて、鈍く光る銅のマグカップが目の前に置かれる。
「グラスじゃないんですね」
「ええ、これが本式なんです」
 取っ手部分までキンキンに冷えたカップを手に取り、鼻を近づけた。強烈なショウガの香りにたじろぎつつ、一口含む。
 舌を灼くような、甘さのかけらもない刺激。
 思わずむせてしまった祐希に、バーテンダーは「大丈夫ですか?」と声をかけた。
「すごい……。今までのと全然違う。たしかに風邪に効きそうですね」
「そうでしょう? 氷で薄めながらゆっくりお召し上がりください」
 おだやかな会話。来て良かった。祐希はそう思った。
 ミックスナッツが盛られた皿に手を伸ばしつつ、さっき切った電話のことを考える。
 彼──羽柴は、北都署の同僚と飲んでいた。おそらく、試験が終わった祝いかなにかだろう。
 昨日、試験が終わってすぐにメールはもらっていた。お疲れさま、と返したら、「近いうちに行く」と返事が来た。
 さっきもそうだ。「近々そっちへ行くから」と。
 祐希が捜査本部入りしていることは、彼も知っている。集中捜査のため捜査員が所轄に泊まり込む最初の二十日間、通称一期の間は遠慮しているのか完全に音信不通になるのだが、それが解けて祐希が自宅に帰るようになると様子見の連絡を入れ、寄ってもいいか打診してくる。
 分かっている。体調を崩していないか、心配してくれているのは。
 でもどこかで、ただ会いたいだけなのでは──もっと有り体に言うと、セックスしたいだけなのでは──と、勘ぐってしまう。
 羽柴は変わった。
 あれほど貪欲に事件の真相を追い求め、現場をはいずるように捜査をし、ストイックに自分の意志を貫いてきた彼が、いつしか机にかじりついて昇任試験の勉強に明け暮れ、試験の結果に気を揉み、そして祐希の“女”を求めるようになった。
 夏の盛り、羽柴は「昇任試験に受かったら、正式にプロポーズするつもりだ」と打ち明けた。照れ屋な彼が真っ赤な顔で言ってくれ、最初はうれしかった。しかし結局は、祐希の“女”の部分が欲しいだけだと気付いてからは、素直に喜べなくなった。
 決して彼が嫌いになったわけではないが、どこかにわだかまりが残るのだ。
 プロポーズを受けるべきなのか、否か。
 結婚したいのか、したくないのか。
 それは祐希の心に、常に重石のようにのしかかっていた。
「……さん。おねえさん」
 ふいに呼ばれ、祐希ははっと顔を上げた。自分のことかと声がした方を向く。
 そこには、明らかに酔っぱらったふたり組のサラリーマンらしき姿があった。年の頃なら三十代半ばだろうか、薄暗い店内でもそれと分かるほど、首から上が真っ赤だ。
「ひとり? よかったら俺らと一緒に飲もうぜ」
「……けっこうです」
 全身で拒絶を示し、祐希は彼らから視線を逸らせた。
 せっかくひとりで飲んでいるのに、邪魔をされたくない。
「いいじゃん、ちょっとくらい」
「なんだったら場所替えてもいいしさ」
 男たちは勝手に隣に座り、肩を抱こうと手を伸ばしてくる。
「ちょっと、やめてって……」
 ぶしつけな態度に、くすぶっていた苛立ちが一気に沸騰する。振り払おうとしたとき、
「お客さま、ここではそういったことはお断りしていますのよ」
と、落ち着いた声がカウンターの中から聞こえた。
 見ると、バーテンダーが口許だけで笑いながらグラスを拭いていた。意志の強そうな黒目がちの瞳が、男たちを見据える。
「ほかの方のご迷惑にもなりますし、ご遠慮いただけますかしら」
 言外に出て行け、というニュアンスを含ませ、バーテンダーは微笑んだ。店内にいた客たちの視線がこちらに注がれているのを、肌で感じる。
 ピシャリと叩かれた態の男たちは、なにやらぶつぶつ呟きながら勘定を済ませ店を出て行った。
 ドアのベルが鳴り止んでから、祐希はバーテンダーに礼を言った。
「ありがとうございました」
「とんでもない。こちらこそ、至らなくて申し訳ありません」
「そんな……」
「たまにはひとりきりで考え事をしたいときだって、ありますものね」
 バーテンダーは、拭いていたグラスを背後の棚にしまった。
 その言葉に、祐希はふと今の気持ちを聞いてもらいたい欲求にかられた。
 彼女が何者かは分かっているつもりだ。実際に利用したことはまだないのだが、本来なら相談相手としては不適当である。
 だが、同じくらいの年齢の女として、なんとなく話を聞いてもらいたかった。
「……最近、迷ってるんです」
 ぽつりと漏らした祐希の言葉に、女バーテンダーはわずかに小首をかしげる。
「その……正式ではないんですけど、結婚して欲しいと言われてて」
「あら」
 彼女はしかし、普通ならその後に続くであろう「おめでとうございます」とは言わなかった。祐希が「迷っている」と前置きしたからだろう。
 祐希は、細かい水滴が浮かびはじめた銅のマグカップを揺らした。
「うれしくないわけじゃないんです。わたしのことを真剣に考えてくれてるって実感したし。でも……仕事のことを考えると、素直に受けていいのか分からなくなるんです」
「藤井さんは、お仕事を続けたいんですね」
「ええ。でも両立できるか不安で……」
 するとバーテンダーは冷蔵庫からペリエの瓶を取り出し、栓をはじいた。中身をグラスに移し替え、失礼します、と一言断りを入れあおる。
「意外とね、なんでもないことですよ」
 意味が分からず、祐希は問い返した。
「なんでもない、って……?」
「結婚を前にした女性は、誰しも不安になるものなんです。結婚によって自分が変わってしまうんじゃないか。今までの生活や仕事や、いろいろなことが。でもね、意外と変わらないんです。結婚する前は環境が劇的に変化すると思っていても、実際はそれほどでもない。名字が変わり、今まで他人だった人と一緒に住むようになり、家事をこなすようになっても、慣れれば『なあんだ』という程度の変化でしかない。もちろん、配偶者が理解あるかどうかや、子どもが出来れば、だいぶ変わりますけどね」
 祐希の視線に気付いたバーテンダーは、ふふっと笑った。
「わたしもね、結婚する前はそう思ってました。この仕事ができなくなるんじゃないかって」
「ご結婚されてたんですね」
「ええ。子どももふたりいますよ」
 驚いた。これほど生活臭のない女性も珍しい。
「幸い主人は理解のある人だから、こんな夜の仕事でも許してくれてるんですけどね。藤井さんのお相手は、お仕事に理解のない方なんですか?」
 カウンターに立つ彼女は、祐希の職業を知っている。
 そしておそらく、今話している相手というのも、うすうす気付いているだろう。こちらから口にしたことはないのだが。
「……いえ。続けることは許してくれてます」
 あの夏の日、続けてもいいかたずねたら、彼はいいよと答えた。
「なら大丈夫ですよ。結婚しても藤井さんは藤井さんのままです」
 バーテンダーの何気ない言葉に、祐希の心臓は跳ね上がった。
 自分でも手が届かなくてもどかしかった核心を、突かれた気がした。
「藤井さんの職場は、男社会だと聞きます。今でも男性に負けじと気を張っているのに、結婚すればもっと負担が増える。回りの男性が『主婦は家庭でおとなしくしてろ、出しゃばってくるな』と無言の圧力をかけてくる。それが気がかりなのでは?」
「……その通りです」
 まるで現場を見てきたかのような的確な指摘に驚いたのも束の間、はたと思い当たった。
 そうだ、彼女も同じなのだ。
 バーテンダーという「男社会」。彼女もまた、同じように悩んだことがあるのだ。
 祐希が答えを求めるようにじっと見つめると、女バーテンダーはちいさくうなずいた。
「居心地は決してよくはないでしょう。環境改善も期待はできない。でも、結婚しても自分は変わらない、自分は自分だという強い信念を手放さなければ、きっと大丈夫です」
 そう言うと、バーテンダーは今日一番の華やかな笑顔をつくった。
 ──自分は自分、か
 祐希は彼女の言葉を、刺激的なモスコミュールとともに飲み干した。


 自宅のあるマンションに戻った祐希は、郵便受けから中身を取り出し、エレベーターの中でざっと目を通した。以前買い物をしたことのある店からのセールはがきや、宅配ピザのメニュー。近所にオープンする美容室のチラシから新築マンションの広告まで、大小さまざまだ。
 部屋に入ってそれらを放り出したところで、留守番電話のランプが点灯していることに気付いた。テープを再生してみると、実家の母からである。
『クリスマスはどうせ仕事だろうから、せめてお正月くらいは帰っておいで。お父さんも待ってるから。帰りが遅くなるときは十分気を付けて。じゃあね、寒いから風邪引かないようにね』
 今年に入ってから独り立ちしたこともあり、今まで以上に実家に顔を見せていない。妹が同居しているからまだましだが、やはり寂しいのだろう。刑事稼業を快く思っていない父などは、推して知るべし。
 思えば、両親にはさまざまな心労をかけてきた。
 義務教育を終了するなり、突然フランスへ留学すると日本を飛び出したくせに学業そっちのけでモデルになり、打ちのめされて戻ってきたと思ったら今度は警察官になりたいと言い出したあげく、ろくに家に寄りつきもしない。なんとも親不孝な娘である。
 やっと身を固める気になったと報告すれば喜んでくれるだろうが、相手は同業者でしかも仕事は続けると言えば、さてどんな顔をするだろうか。
 そこまで考えて、祐希は苦笑した。
 ──あたし、もう結婚するつもりになっちゃってる
 バーテンダーの話でずいぶん気が楽になったのはたしかだが、まだまだ課題は残っている。
 とりあえず、この話はまだ保留だ。
 祐希はメッセージを消去したあと、自宅の電話番号をプッシュした。
 せめて、母に声だけは聞かせてやりたかった。

     三

 携帯に一報が入ったのは十二月九日の午前六時十二分、まだ真琴がパジャマ姿で歯を磨いているときだった。
 急いで身支度を調え、女子寮を飛び出す。同じ敷地内のため、北都署までは徒歩一分の距離だ。刑事課へ駆け込むと、すでにスーツ姿の羽柴が待っていた。
「おはよう、傷害だって?」
「ああ、今鑑識が現場検証に当たってる。犯人は逃走中」
 そう端的に言うと、管内地図を広げた。
「マル害は男性。第一通報は今朝五時七分、どうやら深夜の帰宅途中に襲われたらしい」
「外傷は?」
「頭部を殴打。北都救急病院に搬送された。命に別状はないが意識不明、現在CTスキャンでの検査結果待ちらしい。現場が人気のない生活道路だったから、発見が朝になっちまったんだそうだ」
 羽柴の指し示した場所は、道の片側に工場、反対側は空き地という細道だった。
 真琴が地図に顔を寄せたとほぼ同時に、紺野がネクタイ片手にあたふたと走り込んできた。それを見た羽柴は手にしていた傷の付いた手帳を閉じ、
「行くか」
と、短く言った。


 現場となった路上では、すでに紺色の制服を着た鑑識課員が、地べたをはいずるようにして作業を行っていた。
 通報を受けて真っ先に臨場したのは、近隣の交番勤務の若い巡査だ。保護していた第一発見者の新聞配達員の青年によると、この道沿いには新聞を取っている家庭はないため、普段通ることはないらしい。しかし少し先の四つ辻はルートに含まれており、今日たまたま視線を向けたところ、男性が倒れているのを発見したという。
 男性はブルゾンにジーンズ、マフラーにスニーカーというごくカジュアルな服装で、仰向けに倒れていたらしい。青年は最初酔っぱらいが寝ているのかと思ったが、近くで見ると頭から血が出ていたのであわてて通報したということだ。
 現場は管内地図とは少々違い、片側の空き地は現在マンション建設予定地になっている。やや大きめの工場とに挟まれた、車二台がすれ違うのがやっとという細道だ。明かりは街灯のみ、当然、夜間はほとんど人通りが絶えることとなる。
「マル害の身元、判明しました」
 携帯電話で収容先の病院に問い合わせていた紺野が報告した。
「本條英太、二十五歳。住所は喜多野町二の十八の一、メゾン喜多野四〇二号。所持していた運転免許証で確認取れました」
「近いね」
 真琴がつぶやくと、羽柴は手にした地図に視線を落とした。ここから数百メートルしか離れていない。
 すぐ近くに駅前から伸びるバス道もあるが、それだと遠回りになる。どうやら、近道をしたらしい。若い女性ならば用心して避ける物騒な道でも、成人男性ならあまり危機感を持たずに通ることはよくある。
「容態は」
「後頭部を鈍器様のもので殴打され、頭蓋骨が陥没しています。まだ意識は戻らないそうです。あと、担ぎ込まれたときに微量のアルコール臭がしたそうです」
「飲み会の帰りかなんかかな」
「宴会シーズンだしな。朝帰りの途中ってとこだろう」
 そう言うと羽柴は、白手袋を着けた両手を胸の前で組んだ。吐く息は真っ白だ。
 そのとき、着信音が鳴った。三人とも反射的に自分の携帯を手に取ると、鳴っていたのは羽柴のものだった。しばらく応対したのち、
「係長から、遺留品の捜索は鑑識にまかせて、俺たちはいったん署に戻れって指示だ」
 乗り付けた覆面パトカーのドアを開けながら、真琴は久々に身体の芯から熱が沸き起こるのを感じていた。


 北都署へ戻ると、真琴たちの上司にあたる温井係長と加納課長とが会議室で待ちかまえており、さっそく捜査会議がはじめられた。
 まず最初に、犯行目的が検証された。
 もっとも考えられるのは金目当ての悪質な窃盗、すなわち強盗という見解である。しかしそこに羽柴は異議を唱えた。
「マル害は、財布を尻ポケットに入れた状態で発見されたそうです」
「通行人が来たから、なにもとらずに逃げたとも考えられるぞ」
 課長の反論に、羽柴はなおも否定の立場を取った。
「ならば、マル害はうつぶせの状態で倒れているはずです。そもそも後頭部を殴られたということは、前のめりに倒れるのが普通です。うつぶせならば簡単に財布を抜き取ることができるのに、わざわざ仰向けにさせた。ここになにか意図的なものを感じます」
「ううむ……」
「怨恨などの可能性も、考慮したほうがよいと思われます」
 羽柴の言葉に、課長は口をへの字に曲げた。
 真琴も、彼の言うとおりだと思った。
 だいたい、ひったくりなど通りすがりの窃盗は、非力な女性が主なターゲットとなることが多い。これがもし単なる──と言っては語弊があるが──通り魔だとしても、やはり女子どもや高齢者が狙われやすい。今は忘年会シーズンで、夜道をひとり歩きする女性などいくらでもいるのだ。いくら酔っているとはいえ、わざわざ手強そうな若い成人男性を狙うのは、リスクが高すぎる。
 結局、人通りが少ない現場の状況から、今回は地取りに紺野と盗犯係からの応援、知能犯係と暴力犯係からの応援との二組、被害者の周辺人物の捜査にあたる識鑑が真琴と羽柴、それと温井係長と残るベテラン強行犯係員との二組という編成だ。被害者の事情聴取は、とりあえず延期。本人の意識が戻り次第となった。
 真琴たちは被害者の交友関係を主にあたり、もう一組は職場関係をあたることになった。
 会議室のエアコンでようやく暖まった腕に再びコートを通しながら、真琴はたずねた。
「長引くと思う?」
「さあ。できれば年内にはカタがついて欲しいとこだけどな」
 年末を迎える人々は、とにかく忙しい。早め早めに手を打たなければ、事件の記憶は過ぎゆく日常にどんどん押し出されてしまうだろう。
 平穏な年越しを迎えられるかどうか、あやしいものだ。
 真琴はコートの前を止め、おおきく息を吐いた。


 被害者の本條英太は宇都宮出身で、高校卒業と同時に東京へ出てきた。フリーターとしていろいろな職場を転々とし、現在は新宿のゲームセンターで働いていた。
 事件当日、本條は午前零時の閉店後にバイト仲間と飲みに行き、午前三時頃に仲間の運転する車で帰宅途中のコンビニ前まで送ってもらった。自宅ではないのは、翌日の朝食を買うためだとの同僚の証言を得ている。
 職場関係を当たっている温井組の聴取によると、本條は基本的に人当たりも良く勤務態度も真面目だったそうだ。友人たちからの評判もおおむね良好で、金銭トラブルもなく、怨恨の線は薄そうだった。
 しかし数日後、真琴たちが事情を聞きに行った友人は、以前異性関係で揉めたことがあるという話を持ち出してきた。
「異性関係、と言いますと?」
 通されたワンルームの小さなコタツを囲み、真琴はどことなく幼さの残る青年にたずねた。
「本條が前に付き合ってた彼女なんですけど、そのコがキャバ嬢だったらしいんです」
「彼女に仕事を辞めろと迫ったとか?」
「いえ、その辺は納得済みだったらしいんで、特に問題はなかったみたいなんですけど、ホテルから出てきたところを偶然彼女の客と鉢合わせしちゃったんですって。その客は彼女に相当ハマってたみたいで、いきなりキレて殴りかかってきたそうなんです」
「はあ……」
 いくらのぼせ上がっているとはいえ、そこまで逆上するものだろうか。
「うーん……。どうも、彼女は客に対して『彼氏はいない』つって気ィ持たせて、いろいろ貢がせてたらしいんですよ。それで客がブチ切れたみたいで。俺も聞いた話なんで詳しいとこまでは分かんないんですけど」
 キャバクラ嬢の『彼氏がいない』をまるっきり信じてしまうとは、どうやらかなり純情な御仁らしい。
「そのせいかどうかは知りませんけど、しばらくして本條たちは別れたみたいです」
「どのくらい前の話ですか」
「わりと最近じゃないかと。こないだ飲んだときに聞いたんで……。ちょっと待ってください」
 そう言うと青年は携帯をチェックしはじめた。おおかた、やりとりしたメールの日付でも確認しているのだろう。
「会ったのが十一月九日だったんで、それより前だと思います」
「では、最低でも一ヶ月は経っていますね。本條さんの彼女には、お会いしたことはありますか」
「一度だけ。見た目まんまギャルだったけど、しゃべると面白い子でした。冗談っぽく店の名刺をくれて……。まだあったかな」
 話を途中で切り、なにやら財布の札入れをごそごそ探る。
「あったあった。これです」
 差し出された長方形の紙に、真琴は目を疑った。そこには『名刺』と言われて連想するビジネスライクなものとはほど遠い、うるさいくらいきらびやかな代物だった。背景はピンクのバラと色とりどりの宝石、名前は斜体のローマ字で『ANNA』とあり、ご丁寧にも『アンナ』と読み仮名まで振られている。
 あっけに取られている真琴の手から名刺を引き抜いた羽柴は、裏面を見て、
「店は池袋ですね。行かれたことは?」
「いやー、ないですよ。一応友達の彼女だったしね」
 苦笑しつつ青年は答え、すぐに真顔に戻る。
「あの、もしかしてこの件が今回の事件と関係あるんですか?」
「いや、まだ捜査の途中なんでなんとも。ただ関連性を調べないといけませんので、差し支えなければこの名刺をお借りしたいんですが、よろしいですか」
「あ、はい。どうぞ持ってってください」
 了承を得た羽柴は、名刺をハンカチで包んでかばんにしまい、おもむろに腰を上げた。
 真琴はアンナ嬢の人相を聞かなくていいのかと疑問に思ったが、先に玄関へと向かわれてしまったので、仕方なく後を追う。
 辞する直前に青年は、
「あの、本條は見た目が派手なんで誤解されやすいんですが、悪いヤツじゃないんです。だから……」
と、切実にうったえた。
「大丈夫です。我々にお任せください。かならず事件を解決しますから」
 真琴がそう請け負うと、青年はほっと肩の力を抜いた。本気で本條のことを案じ、また信頼している。良い友人を持つ人間は、たしかに悪人であることは少ない。
 では、果たしてこの事件の裏に隠された真相がなんなのだろうか。
 真琴はちいさく唇を噛んだ。


 署へ戻ると、紺野組がまだ帰っていなかった。とりあえず自席に着いてパソコンを立ち上げ、外出している間に入っていたメールをチェックした。新着メールがないのを確認してから今度はブラウザを起動し、習慣にしているニュースサイトへとアクセスする。
 政局の模様、三日前に起きた元交際相手による女性とその両親の殺人事件の続報、丸の内近辺で相次ぐ不審火、スポーツニュースなどをざっとチェックした後、週替わりコラムのページを開く。
 今週のテーマは『モンスターペアレント』である。
 正直なところ今さら感はなきにしもあらずだが、最近大きな問題が起きたのでまたもや浮上してきたらしい。
『男の子がふざけて窓ガラスを割り、先生に叱られた。そこまでならよくある話だが、保護者が『子どもがふざけたくらいで割れるガラスが悪いのに、叱るとは何事だ。怪我するといけないから、学校中のガラスを取り替えろ』とて担任にクレームを付けてきた。要求を呑めないと突っぱねたところ、今度は教育委員会に持ち込むという騒ぎにまで発展した──』
 ──なに考えてんだ。まずは自分の子どもに「ガラスを割るな」って教える方が先だろうが
 さんざん事例を見てきたが、やはり自分にはとうてい理解できない思考回路だ。
 記事では『その親は“叱られる”イコール“不当な扱い”だと思い込んで責任をすり替え、“消費者としての権利”を振りかざしている』と述べていた。
 最近頻発している通り魔事件の犯人も、自分が不遇なのを世間や社会のせいにしている者が多い。真琴からすれば責任転嫁だとしか思えない。
 もちろん、正当な理由があれば人を殺してもいいというわけでは断じてない。
 しかし、それにしてはあまりにも身勝手ではないだろうか。
 つらつらと考えていると、昼休みを告げるチャイムが鳴った。


 昼食後、羽柴が持っていた名刺を見せてもらった。
 表面をもう一度確認し、裏返す。そこには誕生日や好きなものなどが書かれたプロフィールがあった。ありがたいことに、顔写真まで載っている。扇のようなまつげと金髪の、派手な娘だ。羽柴が青年に人相をたずねなかった理由が分かった。
「へー、キャバ嬢の名刺ってこんなんなんだね。好きなブランドまで書いちゃって、わっかりやすい」
 全身で“女”を主張するこの手の女性を、真琴は一番苦手とする。つい皮肉混じりの口調になってしまった。
 しかし羽柴は気に留めたようすもなく言った。
「池袋っつーと、あのへんは豊島署が管轄か」
「そうだね。誰か心当たりあんの?」
 羽柴は長く、都内のあちこちを飛び回る捜一に在籍していた。繁華街を抱える大規模署ならば、知り合いのひとりやふたりはいて当然だろう。
「顔見知りは何人かはいるけど、どっちかというと会いたくない方の知り合いだな。かと言ってアイツに頼るのもなあ……」
 ぽつりとこぼした台詞をすかさず拾う。
「アイツって誰」
「捜一のもと同僚。卒配で豊島署にいたんだ。気はいいヤツなんだけど、あとがうるさい」
 現在は「もと同僚」だが、あと三ヶ月もすれば「同僚」に戻る。なるべく貸し借りは避けたいのだろう。
 そのへんの微妙な話題には触れず、真琴はたずねた。
「アンナちゃんのお客さん、絡んでると思う?」
「どうだろう。いくらキレたからっつっても、わざわざ夜道で襲いに来るもんかな。本條がこのキャバ嬢の本命だってんなら、なおさら客に身元をバラしたりはしねえだろうしな」
 そこへ、寒い寒いと騒ぎつつ、紺野組が帰ってきた。準備が整うのを見計らった温井が、
「じゃ、はじめよう」
と、席を立った。


 真琴たちが報告した一連の情報は、連日空振り続きだった地取り組や、いくら叩いてもほこりも出なかった職場鑑組の目の色を変えるのに十分であった。
「キャバ嬢本人が口を割らなくても、別ルートで本條の身元を探った可能性もあるだろう。慎重に当たってくれ」
 温井の重々しい言葉に、真琴と羽柴はうなずいた。
 会議の後、さっそくふたりは動き出した。名刺にはアンナ嬢に直通の携帯番号も記載されていたが、店内での客の態度なども聞かねばならないため、あえて直接店に連絡を取った。
 すると、電話に出たマネージャーと名乗る男から、彼女が騒動のあと店を辞めていたことを知らされた。
 いきなり出端をくじかれた感があるものの、とりあえず他の従業員から件の客の話を聞くため、ふたりは事務所を出た。
 向かうは、東京有数の繁華街・池袋だ。

     四

 祐希は佐武とともに、指定された聞き込みを終えたのち、事件現場に向かった。もう、何度訪れたか記憶にすらない。
 ビジネス街のど真ん中、証券会社街から少し外れた場所に、現場となった雑居ビルが建っている。エレベーターがあるが、あえて階段を使い三階へ向かう。一段登るごとに、焦げ臭いにおいが鼻をついた。すでに警察が張った立ち入り禁止のテープも解除され、今はビルの管理会社が置いたカラーコーンとコーンバーが置かれている。
 目指すフロアに立った祐希は、きゅっと唇を噛んだ。煤と灰にまみれた、見るも無惨な焼け跡。
 日本橋署における『茅場町四丁目弁護士殺人放火事件』特別捜査本部は、設置からすでに一ヶ月近くが経過している。犯人逮捕に結びつく決定的な証拠はいまだつかめていないが、捜査方針はある程度固まってはきている。今日もその裏付けで、祐希たちは付近を聞き回っていたのだ。
 しかし、祐希は方針が決まった当初から、違和感を抱いていた。
 本当にこれでいいのか。なにか、重要な見落としがないのか。
 その疑惑に駆られるたび、こうして現場に足を運ぶのである。
『現場百遍』という言葉があるが、まさしく今の祐希の姿勢がそうだった。
 相棒である佐武は「もうここには手がかりは残ってないよ。行くだけ無駄」と、とうに匙を投げていた。今だって、隣のコーヒーショップで一息ついているので、祐希はひとりでここまで来たのだ。
 やる気がないにも程があるが、実際は彼の言うとおりかもしれない。現場は文字通り丸焼けで、警視庁が誇る鑑識班が目を皿のようにして探っても、ろくな証拠は出てこなかったのだから。
 しかし──。
 事件は今から約一ヶ月前の十一月八日、日曜日の午後九時過ぎに起きた。
 現場となった『小笠原法律事務所』は、五階建ての雑居ビルの三階ワンフロアを占めており、休日も営業している弁護士事務所だった。
 近隣から火事の通報があり、消防車が駆けつけて消火に当たったが三階が全焼、四・五階が類焼、焼け跡からこの事務所の責任者である小笠原邦泰の焼死体が発見された。休日だったため、ほかのフロアが無人だったことは不幸中の幸いである。
 当初は捜一でも火災犯捜査係が出動していた。
 しかし、ただの火事ではなかった。鑑識からガソリンがまかれていた可能性と、検視報告で遺体に他殺の疑いがあったことが指摘されたのだ。
 殺人ならびに、証拠隠滅のための放火であると断定、瞬く間に特捜本部が設置された。祐希たち強行犯四係が新たに投入され、連日大規模な捜査が進められた。
 祐希は注意深く焼け跡へと足を踏み入れた。パンプスが煤で汚れるのがちらりと気になったが、エナメル素材だからあとで拭き取ればいい。
 床はもちろん、壁や天井、柱までが真っ黒だ。ガラスはことごとく割れ、熱でひしゃげたサッシだけが残されている。燃えかすがあちこちに散らばり、とてもじゃないが奥までは入っていけない。
 しかし、現場の状況だけはいつでも確認できるよう、手許に残しておきたかった。ネットブック代わりにと最近購入した、スマートフォンをバッグの底から取り出した。
 サブ携帯としての位置づけなので、地図検索や写真撮影、スケジュール管理などの利用がメインだ。電話本来の機能はめったに使わず、そのため宛先もひとり分しか登録していない。
 フォトアプリケーションを起動させ、手当たり次第に撮影していく。最後に、カメラを窓際の左側へ向けた。
 鑑識の報告では、もっとも激しく燃えていたのがこの部分と遺体周辺であり、油分も同様に検出された。
 のちに事務員に室内の間取りを再現してもらったところ、左窓際にはこれまで小笠原が手がけた公判や依頼人などの記録書類、金庫などが収められたキャビネットが置かれていたという。しかし耐火金庫の中には金目のものは入っておらず、また解錠しようとした形跡もないことから、金銭目的という可能性は早い段階で却下され、自動的に捜査方針は怨恨の線で攻める状況となった。弁護士という職業柄、恨みは比較的買いやすいだろう。
 また、遺体は無惨な消し炭状態となっていたが、司法解剖の結果、気道内に煤の付着はみとめられなかった。
 通常、焼死体は大量の煙を吸い込み、意識不明になってから肉体が焼けるため、鼻や気管などに煤が付着されるものだが、小笠原の気管には煤が入っていなかった。これは、火がついたときにはすでに呼吸が止まっていることを意味する。
 その後の綿密な調査により、後頭部に打撲創がひとつ、頚部に索条痕が確認できた。おそらく、背後から頭を殴ったが死ななかったため、とどめをさすために首を絞めたのだろう。
 他殺であり、証拠隠滅のための放火であることは、これでほぼ立証された。
 しかし、肝心の犯人につながる有力な手がかりは火災のためほとんど失われてしまい、捜査は頓挫した。つい先日も「火と水は、すべての証拠を消しちまう」と、所轄のベテラン刑事がぼやいているのを耳にした。
 残された手がかりらしい手がかりといえば、ふたつ。
 ひとつが、防犯カメラの映像だった。
 事件当日、ビルの入り口付近にあるメールボックス上に設置されたカメラが、不審な男性の姿を映していたのだ。
 年齢は二十歳から三十歳くらい、中肉中背で野球帽にマスク、黒っぽい上下に大きなスポーツバッグという格好である。建物へと入る姿が午後八時三分、出て行く姿が八時四十九分とそれぞれ記録されており、その間隔はわずか一時間にも満たなかった。
 残念ながら法律事務所内にはカメラは設置されておらず、犯人はエレベーターも使用していないので内部のカメラにも写っていない。
 現在はこの映像を解析し、より鮮明な犯人像を導き出す作業の最中である。
 そしてもうひとつが、事務所にあった小笠原のパソコンである。
 熱により筐体が溶けてしまうほど激しい損傷だったが、ハードディスクの復旧が見込めそうだという。紙媒体の資料はすべて焼けてしまったが、もしデータが復旧できれば事件の手がかりがつかめるかもしれない。
 犯人は誰だ。
 なんのために弁護士を絞殺し、資料の入ったキャビネットを重点的に燃やしたのだ。動機が怨恨だとすれば、殺すだけで事足りるはずだ。
 キャビネットの中身が目的なのか。犯人にとって不都合なものが入っており、その隠滅を計ったのか。
 そうまでして消さねばならないものとは、いったいなんだったのか──。
 祐希はもう一度唇を噛むと、焼け跡をあとにした。


 日本橋署へ戻ると、まだ会議には間があるらしく捜査員たちが会議室で三々五々集まっていた。
 祐希は嶋元の姿を探したが、席を外しているらしい。仕方がないので四係の仲間たちが固まっているすぐ側に座って帰りを待つことにした。
「ほんとに怨恨なのかよ。『弁護士なら誰でもよかった』なんて抜かすバカの仕業じゃねえか」
「弁護士に恨みがあったとかですか? そんな動機あるんですかねえ」
「ないとは言えないだろ。『一度人を殺してみたかった』とか『むしゃくしゃしてたから殺した』とか、最近ゴロゴロしてるじゃないか。常人じゃ考えられない動機がさ」
 同僚たちも皆、進展のない捜査のせいで集中力が欠けだしているのだろう。最近はこうして横道に逸れた雑談も増えてきた。
 祐希もまた聞くともなしに、同僚たちの会話に耳を傾ける。
 やがて、嶋元が部屋に入ってきた。帰還を告げに席を立ちかけると、逆に向こうから手招きされた。
「ああ、ごくろうさん。ちょうどよかった、話あんねん」
「なんでしょう?」
「ここんとこの成果はどうや? でかいネタ仕入れられたか?」
 ずばり聞かれ、祐希はやむなく首を振った。きょうもほとんど無駄足だったのだ。
 すると嶋元は手を振りつつ、
「いや、それは別にええねん。ええって言うたらあかんけど。それより、例の木下組のやつな」
「ああ、朝田の件ですか」
 朝田とは、被害者が生前抱えていた案件の依頼者である。
 バーの経営者で、小笠原に金銭トラブルの処理を相談していた。しかし、朝田の経営状態などにも非が見受けられ、実直な小笠原との間で交渉が決裂寸前であった。最近では相談料を踏み倒そうとすらしていたらしい。
 また、さる暴力団とのつながりも疑われ、チンピラ程度ならあごで使えたそうだ。
 ここに木下警部補が目をつけ、朝田が小笠原に対し脅迫ないし実力行使に出たのではと推測、防犯カメラに写っていたのは彼の子飼いである可能性を示唆した。ほかに有力情報もないことから、現在では本部の方針もそちらの流れに乗っている状態であった。
 だが嶋元は、安易に被疑者と決めつける木下のやり方には反対の姿勢を取っており、水面下で別の調査をしていた。
「木下らがアイツの店ずっと張り込みしてるやん? あれにな、明日から藤井を貸してほしい言うてきてんねん」
「わたしをですか?」
「そう。なんかな、長瀬が風邪でぶっ倒れたんやって。人数足らんから、復帰するまで貸してくれってことらしいわ」
 祐希は思わず眉をひそめた。人数が足りないから? 口実に決まっている。
 ちらりと木下たちの方に目線だけを流す。木下は腹心に囲まれ、なにやらひそひそ話だ。
 祐希の視線を読んだのか、嶋元は整った顔に苦笑を浮かべた。
「ま、ぶっちゃけ見え見えやけどな」
「見え見えですね」
「きのっぴーもあと少しやし、向こうに手土産持って行きたいねんやろ。悪いけど、ちょっと行ったってくれへんか」
「──分かりました」
 祐希がうなずくと、嶋元は「すまんな」と片手を顔の前に立てた。
「長瀬が復帰したらすぐ戻すから。それまでの辛抱や」
「ええ。しっかりファスナー締めておきます」
「頼むわ」
 嶋元はにやっと笑った。どこのファスナーか、承知の上なのだろう。
 そうこうしているうちに、捜査会議がはじまった。
 祐希は席に着き、メモ帳をぱらぱらめくりながら考えた。
 あらためて、嶋元の下につけてよかったと思う。
 木下の部下であったときは、本当に仕事がやりづらかった。コンビを組んでいた相手と上司が犬猿の仲、というのも一因だが、あのまま木下の下にいれば冗談抜きでセクハラ被害に遭ったに違いない。
 新しく上司となった嶋元は、早い段階で祐希を一人前と見なし、一捜査員として活動するよう指導してくれた。
 親しみやすいキャラクターであると同時に、あらゆる面において気配りができ、なにより素晴らしく優秀。
 まさしく理想的な上司であり、この十ヶ月は羽柴と組んでいたときとはまた違った充足感があった。
 ──このまま、嶋元主任の下で働けたら……
 あれから、何度そう思ったか。
 しかしもう、決まってしまったことだ。今さらどうもできない。
 ほとんど実のない報告を右から左に聞き流しつつ、祐希はそっとため息をついた。


 翌日から、佐武とのコンビは一時解消となった。
 代わりに、現在木下組が中心になって張り込みを続けている現場へと足を運ぶことになった。
 池袋東口にほど近い繁華街の路地にある、築四十年は経ってそうなくたびれた雑居ビルだ。テナントは主に麻雀店やあやしげな貸事務所。空室になっていた一室を警視庁が借り上げ、そこを根城に連日朝田の行動を張っているのだ。
 ほかに、朝田の自宅マンションなどにも張り込みはついているが、彼は妻子がトラブルに巻き込まれるのを恐れているのか、あまりそちらには寄りつかない。ここ最近も店に寝泊まりしているようだ。
 今のところ、朝田は不審な動きを見せていない。彼の子飼いも同様に、店に出入りする形跡すらなかった。
 遠慮がちにノックする。解錠の音とともにはげたスチール扉がわずかに開き、祐希はその隙間から身を滑らせ中に入った。瞬間、タバコの煙と臭いでむせそうになる。
 十坪ほどの狭い室内には、長机が二本とパイプ椅子がいくつかと小さなハロゲンヒーター、安物のカーテンが引かれた腰窓の下には、これもパイプ椅子がいくつか並べられてある。壁にくっつくように置かれたソファの上には毛布があり、どうやら仮眠に使うものらしい。左手には小部屋があり、ガス湯沸かし器があるところを見ると、そこは給湯室になっているようだ。
「おう、来たか」
 横柄な態度で、木下は言った。
 室内にはほかに三人。ドアを開けてくれた所轄の捜査員がひとりと、パイプ椅子に座って窓の外を監視している後ろ姿は、四係の同僚だろう。窓からは、朝田のバーが入っているビルの入り口がよく見える。
「長瀬さんは……」
「三十九度の熱出して戦線離脱だ。二、三日もすりゃ戻ってくるだろうけどな。それまで頼むぞ」
 そう言うと木下は吸っていたタバコを灰皿でもみ消した。長机に置かれたふたつの灰皿は、いずれも吸い殻が小山のようになっている。
 祐希はコートを脱いで、空いたパイプ椅子の背にかけた。こんなところに置いておくと、タバコの臭いが染みつきそうでいやなのだが、ほかにかけておく場所はない。
「おい、休憩していいぞ。メシでも食ってこい」
 木下は、双眼鏡で監視をしていた部下の肩を叩いた。木下組を自認する同僚は、首を回しながらコートを手に取り、祐希の横をすり抜けていった。
 交代要員だと言われてきた祐希は、彼の代わりに窓際へと向かおうとした。
 すると木下はあごをしゃくり、
「ああ、まだいい。それよか、コーヒーでも入れてくれ」
「……はい」
 お茶汲みは慣れているから、今さらどうということもない。祐希は素直に従った。ジャケットも脱いでカットソーの袖をまくり上げると、給湯室へと入った。
 まずは、換気扇を回す。少しでも煙がましになればいいのだが。
 長丁場を覚悟の上か、給湯室にはある程度の炊事用具は用意されていた。
 ヤカンに水道水を満たし、火にかける。傍らに置いてあったカップを一度水洗いした後まとめて盆に乗せ、インスタントコーヒーのふたを開けたところで、木下が入ってきた。
 祐希の横に立ち、ふたたびタバコを手に取りコンロの火を移す。
「ところで、そっちはどうだ?」
「どう、とは?」
「地取りだろ。新しいネタでも拾えたのかと思ってな」
 来た。
 やはり、嶋元が探っている内容が気になっているのだ。
 自分の主張が捜査の主流を形している今、横やりが入って手柄をさらわれたくないと考えているに違いない。おおかた、嶋元の部下のうち一番下っ端の祐希なら、簡単に口を割らせることができると踏んだのだろう。甘く見られたものだ。
 下手なことは言わない方がいい。
 ささいなことであっても、どこでどんな風に足許をすくわれるか予測できない。自分の不用意な一言で、嶋元の立場があやうくなる可能性だってありえるのだ。
 祐希はあえてとぼけてやった。
「いいえ。事件当日が日曜日ということもあってか、成果は芳しくありません。休日のオフィス街がこれほどやっかいだとは思ってもみませんでした。本当に、ゴーストタウンみたいになるんですね」
「…………」
 木下は無言だ。口にファスナーをかけた祐希の様子が気に入らないらしい。
 その代わり、ねばっこい視線がむき出しの腕やカットソーの胸元に絡みつく。男は盗み見しても気付かれないと思っているようだが、大間違いである。
 ──触ってきたら、ヤカンを盾にしてやる
 蒸気を噴き出しはじめたヤカンの取っ手をさりげなく握り、敵の出方を待つ。
「……見上げた忠臣ぶりだな。尻尾の振りすぎで千切れちまうんじゃねえか?」
 嫌味たっぷりな台詞に、今度は祐希が無言で首を傾げる。ほぼ同じ高さにある顔を見据えてやると、木下はふんと鼻を鳴らした。
 自分の斑にいた頃はまったくなびかなかった祐希が、嶋元には素直に従うのが気に入らないらしい。実際は上司として優れているからなのだが、木下はそれを、祐希が嶋元を“異性”として慕っているからだと思い込んでいる。馬鹿な話だ。
「おまえ、嶋元の下についてから、やけにべったりだよな。ああいうのが好みだったのかよ」
「わたしは、どなたの部下についても自分のやり方を変えたつもりはありません」
「そんな見え見えの態度でよく言うぜ。ま、ああやって可愛がってもらえば、将来安泰ってか。いいよな、女は。寝ればいいポジションが確保できるんだからさ」
「……そんなんじゃありません!」
 ひどい屈辱に、祐希は思わず木下を睨みつけた。だが木下はにやにや笑い、
「今後のことを考えりゃ、嶋元だけじゃなく俺にも可愛がってもらった方が得だと思うがな。向こうに行ったら、いい評価つけてやるぜ」
と、タバコの煙を吐き出してから、ずいと一歩近づいてくる。腰に手が回りそうになり、祐希はヤカンの取っ手をさらに強く握った。
 そのとき、捜一のもうひとりの同僚が泡を食ってやってきた。とっさに離れた木下に、
「主任、たいへんです」
「なんだ、動いたか?」
 同僚は、ぶんぶんと首を横に振った。
「朝田の店の近所を、アイツがうろついています」
「アイツ?」
「今年のはじめに北都署に異動した、あの羽柴ですよ!」
 今度は、祐希が目を見張る番だった。



※試し読みは以上です。
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