CODE R.I.P. 掌編『Girls Just Want to Have Fun?』

 ジャケットの胸ポケットで、携帯が震えた。
 取り出して机の下でそっと開いてみると、この後約束している人間からのメールだった。
『もうすぐ終わるでしょ? そっちへ迎えに行くから』
 短い文章だが、末尾で点滅する絵文字がそっけなさをカバーしている。しかし、祐希は絵文字よりもその内容に驚かされた。
 ──なによ、迎えに来るって……
 そう思った矢先、大部屋を区切るロッカーの陰から、チョコレート色のショートボブがのぞいた。
 同じ捜査一課ではあるが、特殊班捜査二係に所属する女性刑事、野波純巡査だった。
「ども、おじゃましまーす」
 強行犯四係の面々が、一斉に顔を上げて声のした方を向く。業務終了となる午後五時を過ぎ、ようやく緊張がほどけた空気だったのが、またもやピリピリと引き締まった。
 そんな雰囲気を読んだのか読まないのか、野波は、
「お疲れさまです。ちょっとそこの若いのに用事がありまして」
などと、あくまでも軽やかな口調で言ってのけた。
 名指しされなくても、「若いの」だけで自分だと分かる。祐希はあわてて席を立った。
「もう、野波! 外で待っててってメールしたでしょ」
「やーよ。どうせおんなじ部屋に居るんだから、一緒に出たっていいじゃん」
 女ふたりの会話に、上司の木下警部補が口を挟んでくる。
「なんだ、また借りていくのか」
「ええ、少しのあいだ」
「今度は誘拐か? 恐喝か? それともまた109の張り込みか?」
 嫌味たっぷりの質問を、野波はさらりとかわした。
「いえいえ、とんでもない。うちはおかげさまで最近ずっとヒマですから。今日は単なる食事会です。さっ、行くよ!」
 いきなり急き立てられ、祐希はやれやれと肩を落として自席に戻り、机の上を片づけてからバッグとジャケットを手に取った。
 斜め前に座る先輩に「お先に失礼します」と頭を下げる。
 すると野波もまた、
「羽柴さん、お借りしていきますね」
と、声をかけた。
 祐希があっと思う間もなく、パソコンのモニタに釘付けだった視線が動き、野波を見上げた。突然のことに、やや戸惑っているようだ。
「あ?」
「藤井ですよ。明日の業務には支障をきたさない程度で返しますから。あっ、食事会っても女ばっかりで合コンじゃないですよ、ご心配なく」
 なんてことを言うのだ、と泡を食っていると、羽柴が怪訝な顔で答えた。
「……ああ、まあ、ほどほどにな」
「はい。では失礼しまーす」
「すみません、お先です」
 野波に腕を取られて引きずられた体の祐希は、必死に頭を下げつつ大部屋を後にした。
 廊下に出て誰もいないエレベーターに乗り込むやいなや、
「よけいなこと言わないでよ、バカ!」
と、叱りつけた。
「バカとはなにさ。愛しの先輩に合コンだって勘違いされたら困るだろうから、わざわざ説明しておいたんじゃないの」
「ちょ、やめてったら! もう!」
 思わず祐希は、持っていたバッグで野波の腰のあたりを殴ってしまった。


 野波純との出会いは三ヶ月前の七月、まだ一課に配属されて間もないころだった。
 彼女が所属する捜査一課特殊犯捜査係とは、誘拐・人質立てこもり・企業恐喝・ハイジャックなどに対応する、通称SITと呼ばれる部署だ。
  祐希が籍を置く強行班が扱う、殺人や傷害、強盗など被害がすでに終了した事件は、残された手がかりをもとに過去へ過去へと捜査の手を広げていくのが普通である。対して特殊班の扱う事件は、被害者が誘拐された状態であったり、犯人からの要求待ちであったりと、現在進行形で事件が流れる。リアルタイムで犯人と駆け引きしなければならないというのは、一歩間違うと即最悪の事態へと発展する危険性を孕んでいるのだ。よって、同じ捜査一課といえどもその捜査方法はまったく別だと言ってよい。
 当時特殊班はある身代金誘拐事件を手がけており、犯人とつながっていると目された女の勤め先であるアクセサリーショップを張り込む作戦を取っていた。しかし、店舗が入っているのが渋谷109という、中年男性だと目立つ場所だった。そのため野波が抜擢されたそうだが、肝心の若い相方がなかなか見つからない。誘拐事件の捜査本部には女性刑事は何人かいたが、109に張り込むには浮いてしまう年齢である。カップルのふりをしようにも、数が限られている若手刑事はみな持ち場を離れられない。
 そこで、ちょうど手の空いていた祐希に白羽の矢が立った。
 強行班の仕事もまだほとんど覚えていないというのに、ただ「若い女」というだけで引き抜かれのは、文字通り犠牲者のような気分だ。右も左も分からない現場で、精いっぱい若作りをして毎日野波と109通いをしたものだった。
 結局、事件は自分と野波とは関係のない場所から解決を迎えたのだが、終わってみると祐希にとって多くの経験を与えてくれた。と同時に、なんでも話せる貴重な友人をも得ることとなった。
 強行班と特殊班は本来ならば相容れることはなく、どちらかというとお互い煙たがっている間柄だが、野波はそんなことにはおかまいなく、今日のようにひょっこりと顔を出す。祐希からすると同僚たちの逆鱗に触れるのではとヒヤヒヤさせられるが、当の本人はどこ吹く風だ。
 途中、化粧室に寄ってメイク直しをするついでに、クリップを外して髪を下ろした。持ち歩いているワックスをなじませて手ぐしで整える。
「それ、可愛い! どこで買ったの?」
 勤務中は自重していた花柄ストールを取り出して巻いていると、隣でホットビューラーを手にした野波が歓声を上げた。
 購入した店の名を説明しながら、祐希はこんなたわいのない会話ができる喜びを、ひそかに胸に抱いた。
 刑事という仕事柄、学生時代の友人とはなかなかスケジュールが合わない。毎日過ごすオフィスは、息苦しい男所帯だ。そんな中、似たような立場で歳もひとつしか違わない野波は、まさに気の置けない存在だった。
 地下鉄を乗り継ぎ、待ち合わせ場所の駅まで向かう。改札を出ると、清楚なワンピース姿の女性がこちらに手を振っていた。
「ごめん、待った?」
 野波が聞くと、彼女は「ううん」と首を振った。
「この子が、中林愛華。で、こっちがうちの隣の藤井」
 えらく大雑把な説明だが、こんな人の多い場所で具体的な所属先を言うわけにはいかない。祐希もまた名前だけを名乗ることにした。
「はじめまして。藤井祐希です」
「こちらこそ。お話は純ちゃんからうかがってます」
 十センチ以上低い位置から上目遣いで微笑む中林愛華の姿に、祐希は目を奪われた。
 ──すごい、可愛い!
 肌の色は透けるように白く、キャラメル色の上品な茶髪がふんわりと波打っている。黒目がちの大きな瞳が、夢見るような雰囲気をかもし出していた。
 こんなに可愛らしい女性が、去年まで手帳持ちだったとは。
 祐希が言葉を失っていると、野波がつついてきた。
「どうよ、ベッピンでしょ」
「たしかに。ちょっと信じられない」
 そう答えると、愛華は恥じらうように面を伏せた。
「もう、純ちゃんったらどんな説明したのよ」
「そりゃあんた、鄙にはまれな上玉ですぜって」
 悪代官のような台詞に愛華は、
「冗談ばっかり。こんなきれいな人の前で恥ずかしいよ」
と、はにかむ様子を見せた。
 外見を褒められるのは正直慣れているが、可愛い子からだと認められた感が三割ほど増すように思える。
 柄にもなく照れている祐希に向かい、野波はにやにやしながら言った。
「おおっと、初印象は上々かな? それなら、あとはお若い人どうしといきたいとこだけど、あたしもおじゃましますよ」
 いつからお見合いになったのよ、という愛華のツッコミに、つられて祐希も笑ってしまった。


 野波が予約しておいた完全個室の創作居酒屋は、靴を脱いで上がるスタイルだった。照明が落とされた廊下を歩くと、平日の夜だというのにあちこちから笑い声が聞こえてくる。世間では不況が叫ばれているが、ここだけ見るとまるで影響を受けていないようだ。
 三人が通された部屋は掘りごたつで、廊下とは障子で隔てられている。大声を出さなければ、外に聞こえにくいだろう。
 携帯だけを抜いた手荷物を部屋の隅に固め、めいめい腰を下ろす。まもなく運ばれてきたおしぼりの感触が、ようやく仕事から解放されたという気分にさせてくれた。
 ドリンクを注文して従業員が退室した後、さっそく祐希は口を開いた。
「中林さん、去年までうちにいたって本当ですか?」
「はい、最初は銀座署の鑑識課で、次は本庁の第三係に二年ほど。今は退職して祖師谷の方の薬局で薬剤師をしてます」
「うそ、祖師谷なら実家のすぐ近くだ。……あ、ごめんなさい」
 思わず敬語を忘れてしまった。そこを野波がするどく突いてくる。
「いいじゃん、愛華はあたしと同い年なんだからさ、気にしなくていいってば」
「え、じゃあいっこ上……」
「いつも驚かれるのよ。来年はいよいよ三十路なんだけどね」
 うふふ、と含み笑いを作る姿からは、実年齢を見破るのは困難だろう。
「言うなよー。分かってても傷つくじゃん」
 そうやって嘆く野波も美女タイプではないが、愛嬌のある丸顔と肉感的な体つきとで、歳よりは若く見える。
「堅苦しいの苦手だから、愛華って呼んでね。あたしも、祐希ちゃんって呼んでいい?」
「ええ、もちろん」
 祐希が答えると、愛華は人なつっこい笑顔を浮かべた。


 それぞれが二杯目のドリンクに手を付けだしたころ、野波が黒糖焼酎の水割り片手におもむろに絡んできた。
「ところで藤井、進展あった?」
「……あるわけないでしょ」
 炙りマグロのカルパッチョをつつきながら、にべもなく答えた。
 主語を聞かなくても分かる。さっきも大部屋でやらかしてくれたのだから。
「え、なに?」
 話の見えない愛華が、小首を傾げる。
「藤井さあ、おんなじ部署の先輩のことが好きなのよ」
「ええー、そうなの?」
「ちょっと、野波ったら!」
 またよけいなことを、とたしなめようとするが、時既に遅し。酔いが回った野波に「まあまあ」の一言で片づけられてしまう。
 これだからもう、と祐希は頭を抱えたい思いだった。
 野波に恋心を打ち明けたつもりはまったくなかったが、109の張り込み時での雑談から見事に図星を指されたのだ。そんなに好き好きオーラが出ていたのだろうか。それは今もって謎のままである。
「どんな人?」
 カルーアミルクを傾けながら、愛華が屈託のない様子で訊ねてくる。こうなると、だんまりを決め込むわけにもいかない。祐希は飲みかけの赤ワインを一口含み、舌を湿らせてから語り出した。
「んー……。無愛想だけどすごく仕事ができて、尊敬できるの」
「ふうん」
「根はいい人だと思うんだけど、なにしろ愛想がなさすぎて誤解されやすいんだよね。あたしも、最初のころはいっつも機嫌悪くて恐い人だと思ってたし」
 話しているうちに、鼓動が早くなっていくのが感じられる。
 ──ああ、あたし酔ってるのかな
 普段なら、飲み慣れたワインでこんなに早く酔うことはない。きっと、雰囲気に呑まれているのだ。
 もしくは──恋する自分に。
「純ちゃんも知ってる人?」
「まあね。ずっと前一緒に仕事したことあるんだけどさ、これがそりゃあもう、マイペースで参ったわー」
 祐希より一年早く本庁に来た野波は、去年の合同捜査で羽柴と一時期行動を共にしたことがあるという。その頃の話を聞いたことがあるが、木で鼻をくくったような態度に閉口したらしい。
「でも、藤井が羽柴さんに惚れるのも分かる気がする」
 そう断じられた祐希は、「どのへんが?」と返した。
「まず、自分より背が高い。あんたくらいだとなかなか釣り合う男もいなさそうだし、これだけでかなりの高得点じゃね?」
「ああ、それはあるかも」
 現役モデルのころはもう少し身長が欲しいとすら思ったが、今では男性を見下ろすたびにいたたまれない気分になる。だからこそ、気兼ねなく並んで歩ける羽柴の存在は特別だった。
「第二、単純に見た目が好み」
 まだふたつ目だというのに、一足飛びに身も蓋もない意見に到達してしまい、思わず苦笑した。
「それを言っちゃおしまいなんじゃ……」
「違うの?」
「……違わない」
 素直に認めると、野波はフォアグラときのこの温サラダをかきこんだ。
「あーいうタイプがお好みっつーわけね」
「どーいうタイプなの?」
 愛華が興味津々といった表情で訊ねる。対する野波は、一転して思案顔になった。
「んー、イケメンっちゃあイケメンなんだけど、でも世間一般で言われるイケメンというにはちょっと……」
「なにそれ、イレギュラーってこと?」
 本気で説明に窮する野波と、まったく想像がついてなさそうな愛華のやりとりに、祐希は助け船を出した。
「整ってるんだけど、優しそうな感じではないね。どっちかというとコワモテかな」
「ふうん。ワイルドなタイプ?」
 そうかも、と相づちを打つ。
 ワイルドとは、実に便利な表現があったものだ。
「そんで、これが最大の理由」
 気を取り直したらしい野波が、にやりと唇の端を持ち上げて言った。
「あんたさ、男にああやってそっけなくされたことないでしょ」
 放たれた台詞に、祐希の心臓はちいさく跳ねた。
「そんなことは……」
 否定しようとするが「いやいやいや」と三連発でさえぎられる。
「絶対あるって。んでさ、邪険にされて印象最悪だったのに、たまたま優しくされたかなんかで、コロッといっちゃったんじゃないの」
「…………」
「あれよ、あれ。昔の少女マンガに出てくる『不良が捨て猫に傘をかけてやってるのを見た女の子が、そいつのこと好きになっちゃう』みたいなさ。黄金パターンってやつよ」
「……悪かったわね、少女マンガ並みで」
「そんなことないって。少女マンガはあらゆるロマンスの原点であり、集大成なのよ? 最近のドラマがマンガを原作にしてるのが多いのは、その辺りを再評価されてるんだから!」
「まあ、単なる制作者側のネタ切れってのもあるだろうけどねえ」
 なぜか力説する野波と、おっとりした口調とは裏腹な鋭いツッコミを浴びせる愛華の横で、祐希は己の胸に手を当てた。
 自覚はなかったが、言われてみるとたしかにそういう点はあったかもしれない。
 ろくに女扱いされなかったからこそ、好感を抱いた。仕事を学ぶ先輩として、純粋に尊敬できた。
 しかし、これがもし他の男たちと同様に、最初から馴れ馴れしかったり必要以上に異性を意識させる態度ならばどうだ。今ほど彼の評価は高くなかったに違いない。結局は、受け取る祐希側の感情に大きく左右されている。あらためて考えてみると、好意を抱く理由としてはあまりにも自分本位のような気がした。
 同時に、以前から漠然と感じていた後ろめたさもまた、頭をもたげてきた。
 真面目に職務に取り組む彼を、異性として意識するやましさ。
 良き後輩として信頼を得たいと思っているのに、心のどこかで女としての自分を見て欲しいと感じてしまう、身勝手さ。
 彼に惹かれはじめてからまだ日が浅いが、考えれば考えるほど堂々巡りに陥ってしまうのだった。
 そう話すと、ふたりは神妙な顔つきになった。
 しばらくして、愛華が口を開く。
「……そんな風に、相手のことを思いやれるのって、素敵」
「え?」
「祐希ちゃんはその人のこと、本当に好きなんだね。恋愛対象としてだけじゃなくて、仕事仲間としても大事にしてるのが分かるもん。……ちょっと、うらやましいな」
 かすかに笑みを浮かべた愛華が、警察を辞めた理由を簡単に話してくれた。
 同じ警察官の婚約者がいたが、女性問題がきっかけで破談となってしまった。職場にも結婚の報告をしてしまっていたため、同情と好奇の視線に耐えきれずに辞職した、と。
 ひどい話だ。どうして被害者の愛華が辞めなければいけないのだ。
「でも愛華ちゃんは悪くないでしょ? その彼がだらしないのが……」
 憤る祐希に、愛華は首を振った。
「ううん、違うの。結局あたし、彼に対してなにも言えなかったし、体面を気にして仕事を続けることもできなかった。現実を直視できずに逃げ出してしまっただけなの」
「愛華ちゃん……」
「だから、自分の気持ちから逃げずに真剣に向き合ってる祐希ちゃんは、すごくえらいと思うの。その気持ちは、やましいものじゃないよ、絶対」
 今日はじめて会ったばかりなのに、自分の気持ちを汲んでくれる彼女の言葉に、祐希はこころに灯がともるのを感じた。
「……そうかな」
「そうよ」
「そうそう」
 野波が口を挟む。
「あんた、真面目すぎんのよ。公私混同してるんならともかく、切り離して考えてんだから誰も責められないって。だいたい、好きなモンを好きになるなってのがどだい無理だっつーの」
 乱暴な言い方だが、今の祐希にはいっそ救われるほどだった。
「ありがと、ふたりとも」
 ──好きでいても、いいかな
 打ち明けないから、表に出さないから。
 好きでいるだけなら、許されるだろうか。


 最後に注文したのは、シメとなるパルメザンチーズのリゾットだった。かなり飲み食いして相当満腹のはずだったが、濃厚なチーズの香りにまたしても食欲がそそられる。
 三等分に取り分けられたリゾットを食べながら、とつぜん野波が吠えた。焼酎のあと、日本酒とカクテルをチャンポンしたせいか、顔が真っ赤だ。
「藤井さー、いっそのこと乗っちゃえば?」
 意味が分からず、聞き返す。
「なにに?」
「羽柴さんによ。ウダウダ悩まずに押し倒しちゃえ」
「なっ……!」
 あまりにも露骨な表現。二の句が継げずにいる祐希に、野波はスプーンを振り回しながら続けた。
「いくらでもチャンスはあるでしょうが。例えばさ、車の運転はあんたがしてるって言ってたよね? ならそのままホテルに直行するとかー。あとは、人気のないとこ連れ出して車で……てのもありか」
「車は危なくない? 職質かけられたら一巻の終わりだよ」
 愛華がのんびりした口調でダメ出しする。
「あ、そっか。アレってエンジン切ってても微妙に揺れるから、遠目からでもバレるんだよね」
「いやー! やめて!」
 生々しさに耐えきれず、あせって肩をつかんで黙らせようとするが、野波は「おおっと」などとおどけて逃げた。自分でも頬が熱くなっているのが分かる。
「もう、明日から運転しにくくなるでしょ! バカ!!」
「意識しちゃうん〜ってか? ゴム忘れんなよ、財布ん中に入れとけー」
「ダメだよー。財布に入れるとコインで傷が付いちゃうから、まだ名刺入れとかの方が安全だよ」
「うはー、名刺入れからゴムとかやる気マンマンじゃん。ピーポくんもビックリっつーか」
 好き勝手なことを言われ、顔から火が出そうだ。
「もー、いいかげんにして! そんなことするわけないでしょ!?」
「そんなことってどれよ。名刺入れにゴムか、それともエッチそのものか」
「どっちもよ! 合意もないのに押し倒すなんて、相手が男の人でも強制わいせつ罪の適用になるんだからね」
 つい大声を出したところ、障子が開き若い男性店員がこわごわと顔をのぞかせた。
「あの、そろそろラストオーダーなんですけど……」
「あ……。えと、いいです」
「失礼しました……」
 店員は消え入りそうな小声で言うと、そそくさと姿を消した。我に返った祐希は口元を押さえた。
「ヤバい、聞こえちゃったかな」
「そりゃ聞こえるでしょ、あんだけデカイ声で強制わいせつとか物騒なこと言ってりゃ。今ごろウラで話題になってんじゃね?」
 がっくりとうなだれていると、愛華がくすくすと笑った。
「さっきの人、あたしたちが元も含め警察官だって知ったら、きっとびっくりするだろうね」
「まあねえ。一般人は警官って二十四時間警官やってると思ってるしね。こうして普通の女の子みたいに飲んで騒いでるなんて、意外に思うんじゃない?」
 野波の何気ない言葉に、祐希はどこかくすぐったい気分になった。
 ──そうだ。あたしだって職務を離れれば、ひとりの女なんだよね
 一課に配属されて気負いすぎて、このところずっと忘れていた。
 プライベートな時間くらいは、こうして食べて飲んでバカ話で盛り上がっていたい。
 そして、好きな人のことを考えていたい。
 それくらい、許されるはず。
 きっと。
 そのとき、テーブルの隅に置いていた携帯が鳴った。ディスプレイを見てみると、今さっきまで話題だったあの人だ。電話の内容は、出なくても分かる。エマージェンシー発生、だ。
 思わず野波の顔を見ると、彼女はすぐに悟ったようで、ゼスチャーで“ここで電話に出ろ”と示した。廊下では一般人の目がある。仕方がないので、深呼吸を一つしてから通話ボタンを押した。
「はい、藤井です」
『ああ、まだ飲んでるのか?』
 聞き慣れた低い声が、耳に流れ込む。
 それは甘い調べのごとく脳に到達し、やがて火照った全身へと回った。一瞬めまいに似たくらみを覚えた祐希は、必死に平静を保ちつつ答える。
「いえ、もう出るところです。なにかありましたか?」
『井の頭公園で変死体が出た。招集かかってるが、来れそうか?』
 井の頭といえば、管轄は吉祥寺署。酔いで霞がかかっていた頭が、急速に冷えていくのが分かる。自分でも驚くほどしっかりした声で、
「大丈夫です。今表参道なんで、タクシーで向かいます。飛ばせばたぶん十一時前には着くと思います」
と、返事をした。
『分かった。詳しいことは着いてからだ。気を付けて来い』
 羽柴は短く言うと、電話を切った。
 終了ボタンを押してから、小さく息をついた。先ほどとは打って変わって真剣な表情のふたりに向かい、
「ごめん、行かなきゃ」
とだけ断る。野波は訳知り顔でうなずいた。
「ここのお金はあとで請求するから、先に行きな」
「大丈夫? タクシー、つかまえられる?」
「うん、ありがとね」
 心配そうな愛華に向かい笑いかけると、手早く荷物をまとめた。
「じゃあ野波、頼むわね」
「あいよ。羽柴さんによろしく」
 少しいたずらっぽい表情で、野波が答える。祐希もまた、
「了解」
と返し、障子を開けた。廊下に足を踏み出したところで、愛華が呼びかけてきた。
「あ、祐希ちゃん」
「ん?」
「今日、楽しかった。また絶対会おうね」
「……うん。こっちこそ、ありがとう」
 いろいろ聞いてくれて。
 支えになる言葉をくれて。
 ありがとう、ふたりとも。
 祐希は笑顔で手を振ると、障子を閉めた。足早に店を出てエレベーターを待つ間に頭の中は切り替わり、今後の予定を綿密に計算しだしていた。億劫だと思ったのは束の間で、すでにまだ見ぬ事件現場への高揚感に満ちている。
 祐希は手にしていたジャケットを羽織り、手早く髪をまとめ上げた。
 スイッチ完了。
 自分だけの、職務モードに切り替わる瞬間だ。
 ──あーあ。やっぱりあたし、刑事なんだな
 そう自嘲ぎみに微笑むと、やってきたエレベーターに乗り込んだ。



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