CODE R.I.P. 掌編『バトン』

 三月に入り、新宿中央署に置かれた捜査本部は一期を過ぎた。
 事件発生直後に捜査本部を設置し、以降二十日間を『一期』と呼んでひとつの目安とする。この間に捜査が進展するかしないかで、事件の今後がある程度予測することができる。
 なんらかの進展があればよし、なければ事件は長引くことになりやすい。
 今回の事件で上がった情報と言えば、被疑者がフィリピン人であろうというだけ。それも具体的にはなにも絞れていないという体たらくである。
 引きずることになりそうだ。
 捜査員の誰もがそう思っていた、ある晩のこと。


 今日はめずらしく会議が早く終わった。まだ十時前だ。
 祐希は書類をひとまとめにし、胸に抱えた。
 捜査員全員が泊まり込みを余儀なくされる一期は過ぎているため、会議が終われば捜査員たちは自由に帰宅できる。祐希もまた足早に会議室をあとにした。
 荷物を置かせてもらっている女子更衣室へ向かう途中、背後から声をかけられた。
 振り向くと、そこにはすでにコートを着た羽柴が立っていた。
「もう帰るのか?」
「はい」
「急ぎの用事とかあるか?」
「いえ、特にありません」
 前にもこんなやりとりをしたな、と思いかけたとき、羽柴が少しあごをしゃくった。
「なら、ちょっと付き合ってくれ。一時間くらいで済むから」
 そう言うと、返事も聞かずにすたすたと先に歩き出した。あわてて引き留める。
「あ、ちょ、待って下さい。荷物置いてきますから……」
「下で待ってるぞ」
 相変わらずのマイペースぶりを発揮する彼の背中を眺めつつ、祐希は苦笑した。
 この背中を見られるのも、あとひと月足らずか。
 そう思うと、寒々とした廊下にひときわ冷たい風が吹き抜けるような気がした。


 署を出たふたりは、新宿駅のガードをくぐり歌舞伎町方面へと歩いていった。
 平日とはいえ、やはり人は多い。ついでに酔っぱらいも多い。
 場所柄を考えてか、さすがの羽柴も祐希を気遣っているらしく歩調はゆっくりである。
「すごい人ですね、迷子になりそう」
「歌舞伎町ははじめてか?」
「はじめてじゃないですけど、夜はほとんど来たことがないです」
「ま、そのほうが安全だろうな」
「羽柴さんは詳しいんですか?」
「詳しいっつーか、俺は歌舞伎町交番にいたからな。もう十年も前だから店とかはだいぶ変わったけど」
 歌舞伎町交番といえば『日本で一番忙しい交番』として有名だ。
 通常の交番勤務期間が三年から五年ほどなのに対し、ここではその圧倒的な多忙さゆえにわずか一年で相当の経験が積めるという。
 その後も新宿中央署に勤務していた彼にしてみれば、新宿はいわば庭のようなものなのだろう。
 歩き進むうち、両側の店構えが怪しくなってくる。
 ちょっとでも羽柴と離れるとたちまちホストクラブの客引きが群がるので、できる限りくっついて歩いた。
 腕をつかんだら怒られるかな、などと思いつつ追いかけていると、ふいに彼は立ち止まった。
 そこには、一軒の雑居ビルがくたびれた様子で立っていた。
 地下へ下りる階段はあるが、看板もなにもない。知らなければ店があるとも思わないだろう。
 階段を下り、ドアを開ける。
 照明を落とした店内にはボリュームを絞ったジャズが流れ、喧噪とは無縁の空間が広がっていた。
 カウンターに、テーブルが二組。おそらく十五席ほどしかないだろう。
 クラシカルな内装の、ごく小さな店だ。
 テーブル席はいずれも埋まっており、カウンターの手前側にサラリーマンらしき男性がふたり座っている。
 羽柴はカウンターの一番奥の席を陣取った。祐希もコートを壁のフックにかけてから、その横に腰掛ける。
「いらっしゃいませ」
 やわらかなアルトとともに、湯気を立てるおしぼりが出された。
 受け取った祐希はカウンターの中に立つ人物に目を見張り、すぐにため息をついた。
 ──きれいな人……
 そこにいたのは、三十代半ばごろとおぼしき女性バーテンダーだった。
 薄暗い照明の下でも美貌は際立っており、きりりと締めた蝶ネクタイがマニッシュな印象を与える。
 このバーテンダー目当てで来る客も多そうだ、と思った矢先、彼女が羽柴に声をかけた。
「ごぶさたですね、羽柴さん。電話ばかりじゃなくて、たまにはいらして下さいよ」
「ちょっとバタバタしててな、なかなかこっちに来れないんだ」
「またそうやってごまかして。本当にご自分の都合のいいときだけ」
「悪かったって。だからこうやって顔を見に来ただろ?」
 ──なに、この会話
 祐希は隣に座る先輩と美人バーテンダーとを交互に見比べた。
 そんな祐希のようすに気付いたのか、彼女はにっこり笑い「どうぞ」と、メニューを差し出してきた。
 仕方なくメニューを開いた祐希の横で、ふたりの会話は続く。
「こないだ頼まれていたやつ、やっと手に入りましたよ。今回はちょっと苦労しましたね」
「助かるよ。どんな感じだ?」
「そうですねえ……。けっこうクセがあります。でも後味は残りにくいので、よーく吟味するとよろしいですよ」
「……俺としては、スッキリ分かりやすい飲み口のがよかったんだけどな」
「まあそうおっしゃらずに。ストレートになさいますか?」
「いや、ロックでいいや」
 どうやら、入手困難な酒を彼女に頼んで取り寄せてもらっていたらしい。
 バーテンダーは氷を砕きながら、祐希のほうに向き直った。
「お決まりですか?」
「ええと……。じゃあ、キール・インペリアルで」
「かしこまりました」
 明日も仕事なのだ、あまり強い酒を飲むわけにはいかない。これくらいなら支障はないだろう。
 注文を終えた祐希は、小皿に盛られたプレッツェルをつまんでいる羽柴に話しかけた。
 周囲が静かなので、しぜんに声のトーンも落ちる。
「よく来られるんですか?」
「ボチボチな。最近は電話ばっかりだったけど」
「……電話、ですか」
 電話ってなんだ。
 個人的な用事だろうか。
 眉を寄せる祐希にかまわず、羽柴はシャンパンの栓を抜くバーテンダーに向かい言った。
「これ、こないだ話した後輩」
 なぜか、自分のことが話題にのぼっていたらしい。
 いよいよ混乱する祐希に、バーテンダーはにこやかに笑いかけた。
 芳醇な笑みは熟成を重ねたウイスキーのようで、同性ながら思わず見惚れるほどだ。
「おうかがいしています。これからも、どうぞご贔屓に」
「あ、はい。こちらこそ」
 訳の分からぬまま、とりあえず頭を下げると、彼女はふふっと笑った。
 あっぱれなほどの余裕の笑み。
 歓楽街を生き抜く百戦錬磨の女バーテンダーからすれば、自分はほんの小娘なのだろう。
 そう思うと、なんとなく悔しい気もする。
 気を取り直して、店内を見渡した。壁にはいくつかの古写真が額に入って飾られている。
 ずいぶんと昔のようで、カウンターに入っているのは和服姿の女性だ。
 その隣にも、女性がカウンターの向こうに立っている。こちらは洋装である。
 スツールを半回転させて見上げていると、後ろからバーテンダーの声がした。
「左の写真はこの店の初代マダムで、わたしの祖母なんです。で、右は母です」
「じゃあ、このお店は代々女性が継いでらっしゃるんですか?」
「ええ。わたしで三代目です。もともとは銀座でお店を開いてたんですが、母の代に移転しました。道具一式やカウンターは、創業当時のをそのまま持ってきたんですよ」
「え、これですか」
 前に向き直り、カウンターを撫でた。
 一枚木のカウンターは磨き込まれ、つややかに光っている。不思議と手になじむ手触りだ。
「開店のときに馴染みのお客さまにつくっていただいたそうで、祖母はこのカウンターにかなり愛着を持っていたらしいんです」
「開店のときにもうお馴染みがいたんですか?」
 祐希の素朴な疑問に、バーテンダーは答えた。
「祖母はもともと銀座で女給をしていたんです。引退したあと、ご贔屓さんの支援を受けてお店を開店しまして」
「じょきゅう?」
 はじめて聞く単語に首をひねると、横合いから羽柴が口を出してきた。
「今で言うところの、高級クラブのホステスってとこだな。戦前の小説とか読むと、時々出てくるぞ」
「へえ……」
 祐希が感心していると、
「お待たせしました」
と、白い手が伸びてきて、店のロゴが印字されたコースターと細長いシャンパングラスが置かれた。
 グラスを手に取ると、ガラスの向こうに淡紅色の液体が細かい泡をまとって揺れていた。
 ひと口含む。
 ほどよい酸味と泡のはじける心地よい感触が舌を打った。
 キール・インペリアルは何度か飲んだことがあるが、この店のがもっとも美味だった。
「おいしい……」
「ありがとうございます」
 バーテンダーは甘い笑みをたたえたまま、羽柴の前にコースターを敷き、その上にオールドファッショングラスを置いた。
 きらきらと輝く氷と琥珀色の液体は、まるで何年も前からそこにあるような、静かな存在感があった。
 羽柴の手が伸び、グラスを取る。
 祐希の大好きな、大きくて武骨な手。
 もう、この手を間近で見ることは、しばらくないのだ。
「お、うまいな」
「でしょう? せっかくなので十八年ものをご用意したんですよ」
 満足げにグラスを傾ける羽柴の横顔を、祐希はじっと見つめた。
 誰よりも近いところで、彼の顔を見てきた。
 でも、もうこれでおしまいだ。
 たった一年の間なのに、呼吸が苦しくなるほど切なかった。
 祐希は甘酸っぱい酒を含み、胸中の想いごと飲み込んだ。


「きょうはおごらねえからな、自分で払えよ」
「分かってますよ」
 羽柴に念を押され、祐希は唇をとがらせて財布を取り出した。
 カクテル一杯だけなのに、思いのほか酔ってしまった。
 夕食を早くに済ませていたせいで胃の中が空っぽになり、アルコールが早く回ったのだろう。
「二千二百円です」
 ちゃんと値段を見ていなかったが、予想範囲内の金額である。チャージ料も合わせれば妥当なところだ。
 納得して支払い、壁のフックからコートを外そうとする。
 続いて支払いをする羽柴の金額を耳にした祐希は、驚きのあまりコートを床に落としてしまった。
「三万二千六百円ですね」
「──……っ!?」
 ──三万って、そんな高いお酒なの!?
 しかし請求された羽柴は、苦い顔をしつつも財布を開いている。
「相変わらず、たっけーな……。もうちょっと良心的な値段になんねえのかよ」
「あいにくですけど、これでもお安い方なんですのよ。ものの良さではどちらさんにも引けを取りませんし」
「それは知ってるけどさ、安月給の身にはこたえるんだよ」
 ぶつぶつと文句を言いながら支払いを済ませた羽柴は、コートを手に取りさっさと店の外へ出ようとした。
 あわてて後を追う祐希は、去り際にバーテンダーに声をかけた。
「あの、おいしかったです。ごちそうさまでした」
「ありがとうございます。またいらして下さいね、お待ちしております」
 彼女はあでやかな笑顔で、深々と頭を下げた。


 ドアをくぐり階段を登ると、凍てついた寒風がビルの隙間を駆け抜けた。
 コートの前を合わせた祐希は、やや千鳥足で羽柴の後をついていく。追いついたところで、さっきの酒について訊ねてみた。
「あのお酒、すごく高いんですねー。ボトルならともかくグラスで三万二千ちょっとなんて、はじめて聞きました」
「ん、ああ。あれか」
 羽柴はコートのポケットに両手を突っ込んだまま答えた。
「酒の値段は千八百円、チャージ料込みでも二千六百円だ」
「え、じゃあ残りの三万は……」
 すると彼は立ち止まり、にやりと口許を引き上げた。
 ポケットに突っ込んでいた右手を差し出す。
 人差し指と中指の間に、先ほど店で出されたコースターが挟まっていた。
「これの代金だ」
 受け取った祐希は首をかしげてコースターを確かめた。
 グラスの水滴が染み込んだせいか、わずかに湿っている。
 ワイン色のロゴが印刷されている以外は、これといった特徴はない。
「これがなにか……あっ!」
 何気なくひっくり返したところ、その裏には短い文章が記されていた。
“事件当時、該当店舗周辺を不審な男性がうろついていたとの情報あり。年齢二十歳前後、身長百七十センチから百七十五センチ程度。国籍は不明だがアジア系、おそらく日本人だと思われる”
 瞬時に酔いが醒めていく。
「これって、もしかして……」
「俺たちが今追ってる犯人だ。どうやら、フィリピン人犯行説はガセネタっぽい」
 端からのぞき込んできた羽柴が、苦笑混じりにつぶやいた。
「たしかに、今回は値段の割りにはお得な情報だ。久々だからサービスしてくれたのかもな」
「羽柴さん、あの人は何者ですか?」
 祐希の問いに、羽柴は答えた。
「あれが、俺の情報屋だよ。こないだの事件のとき、電話してただろう」
 そこでようやく、思い出した。
 一月の例の事件、あのとき確かに羽柴は祐希の携帯を使って情報屋とコンタクトを取っていた。
「大河内孝弘の……!」
「そう、あれだ。あんときも後からがっつり取られたっけ」
 あの美人バーテンダーが、羽柴の情報屋だったのか。
 そう考えると、ふたりの会話に出てきた「最近電話ばかり」というのも得心がいく。
 コースターを持ったまま感心している祐希に、羽柴は口調を改めて言った。
「藤井、それしまっとけ。誰かに見られるんじゃねえぞ」
「え、でもこれは羽柴さんの……」
「いいから。それより、これからのことだ」
 羽柴の歩みが止まったので、祐希もまた立ち止まる。
「俺が北都署に行ったあと、もし情報に困ったらあそこを使え。そのためにきょうおまえを連れてったんだ」
「いいんですか?」
「ああ。ただし、絶対にひとりで行くんだ。嶋元にも秘密にしとけよ」
 厳しい顔つきで念を押され、祐希は表情を引き締めた。
 捜査員にとって信頼できる筋の情報は、なににも替えがたい財産に等しい。
 先輩たちに聞いたところ羽柴と嶋元は仲がいいそうだが、それとこれとはまた別の話だ。
 ふたりは仲の良い同期である前に、生存競争を争うライバルであることを忘れてはならない。
 羽柴は残していく後輩のために、自分の情報屋を使うことを許してくれた。
 それはすなわち、祐希を信用してくれたことにほかならない。
 信用に応えねば。
「──はい!」
 祐希はしっかりとうなずき、コースターをバッグの底にしまった。
 たかが厚紙一枚だというのに、バッグは急にずっしりと重くなったような気がした。


 ふと腕時計に視線を落とした羽柴は、
「やべ、もう十一時半じゃねえか」
と、つぶやいた。
「遅くなっちまったな、帰れるか?」
「大丈夫ですよー、まだ電車あるし」
 一気に緊張がゆるんだ反動か、やけに頭がくらくらしてきた。酔いが復活してきたのだろうか。
 間延びした祐希の返事に、羽柴が眉を寄せる。
「……おまえ、もしかして今ごろ酔ってる?」
「酔ってません!」
 力強く言い切ったつもりだが、自分でもろれつが怪しくなってきたのが分かる。
 やれやれとため息をつき先を歩く羽柴の背中に向かい、祐希はバッグを抱えた格好でたずねた。
「あのバーテンさん、きれいな人ですねー」
「そうかなあ。よく分からん」
「そうですよぅ。羽柴さん、ああいう人がタイプなのかと思っちゃいました。だってすごく親密そうに話してたし」
「……あ?」
 ぴたりと羽柴の歩みが止まる。
 ごきげんで後ろをついてきた祐希は、その背中にぶつかってしまった。
「いたっ! 急に止まらないで下さいよ」
「……おまえ、マジで大丈夫か?」
 振り向いた羽柴の顔は、真剣に心配しているようだった。
 だが祐希はおかまいなく、自分の言いたいことを並べ立てた。
 なんとなく、ヤバいことを喋っているという自覚はあるのだが、口が勝手に動いてしまう。
「そんなことより、ああいう人タイプじゃないんですか? ほんとに?」
「タイプもなにも……」
「あーそうか。羽柴さん、年下スキーですもんね。だってほら、あの『気になる子』とか……」
「うるさいんだよ、おまえは! 置いてくぞ!」
 そう言うが早いか、羽柴は競歩並みのスピードで歩き出した。器用に酔客の間をすり抜けていく。
「やー、待って下さい。こんなとこに置いてかないで!」
 あわてて祐希もまた、雑踏の中を駆け出した。
 以前は、手を引っ張ってくれた。
 引っ張られるがままだった。
 でもこれからは違う。
 助けてもらうばかりじゃいられない。
 ──あたしも、対等でいたい!
 そうして羽柴の横を追い越し、数メートル先で振り返った祐希は、
「先、行きますね!」
と、笑顔で叫んだ。
 瞬間、羽柴の目がまぶしそうに細められたが、それはきっとどぎついネオンのせいだろう。
 そう考えた祐希は、新宿駅方面へと駆けていった。



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