東京フラッパーガール2 上海オールドボーイ ※サンプル

     序章

 彼は、この街をねぐらにしているドブネズミだ。
 路地の至るところにゴミが捨てられ、腐臭を放っているこの街は、彼にとって実に住みやすい天国だった。
 今夜も、饅頭屋の残飯を漁っている。この店はあまり流行っていないので、いつも山のように売れ残りが出る。彼はここの崩れかけた肉餡が大のお気に入りであった。
 店主の婆さんも、いちいち彼のことなど気にしていない。ご大層な餐庁ならばコックに追い出されるだろうが、こんな汚い店では彼らネズミも堂々としていられる。
 気の済むまで残飯を食ったのち、彼はゴミ箱から抜け出した。糞尿と汚水と腐汁が入り交じった路地を走り、大通りを渡った先にある果物屋に向かおうとした。
 止まっていた車の下を抜け、目指す果物屋へたどり着こうとした、そのとき。
 すさまじい爆風と轟音が襲ってきた。
 あまりの衝撃に、彼の軽い身体が吹っ飛ばされる。ころころと土の上を転がり、路地の隅に溜まった汚水に頭から突っ込んでしまう。
 ほうほうの体で泥水から這い上がった彼は、呆然と騒ぎを眺めた。人間たちの悲鳴やわめき声が、爆音で痺れた耳に届く。右往左往する足の間から、猛烈な炎ともうもうと立ちこめる煙、その向こうにさっき下を抜けた車が燃えさかっているのが見えた。
 冬の風が、ずぶ濡れの身体を舐める。ほとんど毛らしい毛の生えていない肌は、あっという間に乾いていった。
 寒さにぶるっと身震いをした彼は、すぐ側に人間が立っているのに気付いた。汚らしい布靴は、数えてみると三足ある。暗闇に溶け込むように、三人と一匹は身を潜めていた。
「──やったか?」
「分からん。ちょっと予定より早い気がするが」
「とにかく、長居は無用だ。さっさとここを離れよう」
 男たちはぼそぼそと小声で言うと、汚れた靴を持ちあげた。爆発の衝撃がまだ残っていた彼は、その気配に気付くのに遅れた。
 そうして彼は、自分の身体が踏みつぶされる嫌な音を聞いた。

     一

 福宮病院は、上海でも有数の設備を誇る総合病院だ。
 磨き抜かれた廊下に、規則正しい足音がふたつ響く。そのうちひとつが、少し前を行く足音に話しかけた。
「報告によりますと、昨日午後十時過ぎ、北四川路に駐車していた日本陸軍所有の車が爆発、炎上したとのことです。周辺住民や住宅への被害はありません」
「被害者は?」
「死亡者が二名、重傷者が一名です」
 後ろを歩く足音の主が、きびきびと告げる。
「死亡した軍属の案内人は上海在住の中国人、通訳も上海暮らしが長い日本人で、いずれも民間人であります。彼らは爆発した車に乗っており、負傷したのは席を離れていた参謀本部の大尉どのとのことです」
 かつん、と小気味よい音を立て、先を歩いていた足音が止まった。
「席を離れていた? 軍属のふたりは待機中だったのか」
 参謀本部附の大尉ともなれば、立派な幹部候補だ。プライベエトならともかく、任務中に側近を付けずにひとりで出歩く──しかも治安の悪い上海をだ──とは、とうてい考えられなかった。
「いえ。いったん三人で車に乗り込んだのち、軍属ふたりは車中に残り、大尉どのだけが降りられたとのことです」
「降りた理由は?」
「現時点では報告がありません。より詳しい事情は、鹿沼軍曹が聴取に当たっております」
 そうか、と短く答え、先を行く足音はふたたび歩を進めた。
 角を曲がり、目指す特別病室が近づく。扉の前には、警護兵が立っていた。ふたつの足音を聞きつけるとすかさず敬礼し、扉のノブに手をかけた。
 病室の入口には、患者名がない。万一のことを考え、公にはしない方針のようだ。
「その、負傷した将校はなんという名だ」
「はっ。参謀本部第二部の、二宮孝徳歩兵大尉どのであります」
「──なに?」
 部下の答えに振り向きかけたと同時に、扉が開く。
 壁も床も、白一色の部屋。
 そのほぼ中央に据えられたベッドに半身を起こした人物が、こちらを見た。
 にやりと笑みを浮かべ、
「よう、遅かったな。貴様が葛葉か」


 今回の爆破事件で負傷した、二宮孝徳歩兵大尉は三十一歳。
 二宮家の次男で、三人兄弟の真ん中にあたる。陸軍士官学校、略して陸士の三期上で、葛葉敦にとっては先輩でもある。
 丸刈りが基本の陸軍において、敦のような憲兵や海外駐在官しか認められていない長髪を通し、気に入らなければ上官であっても口答えをし、暇さえあれば部下を連れて飲み歩くという。その異端児ぶりは有名で、兵科違いで会ったことのなかった敦の耳にも噂が入ってくるほどだ。
 あらためて挨拶を交わし、ベッドに座る怪我人に容態をたずねた。
「お加減はいかがですか、二宮大尉どの」
「どうもこうもねえよ。もうちょっとで首と胴体が離れるところだったぜ」
 いまいましげに顔を歪め、孝徳はぼすんと枕に背を預けた。端整な顔立ちだが、爆発の衝撃を受けた今はあちこちに細かい傷が目立つ。
 爆破事件のあらましは、事前に部下である鹿沼軍曹が聞き取りを済ませていた。作成した調書を敦に渡した鹿沼は、敦の腹心である猪塚曹長とともに病室を後にする。
 ふたりきりになると、孝徳は「まあ座れ」と近くの椅子を指した。腰掛けて目上の人間の話を聞く訳にはいかない、と辞退した敦に、
「噂どおり、堅苦しいやつだな」
「どちらの噂でしょうか」
「風の噂さ。言っとくが、環からじゃねえぞ」
 はは、と大声で笑い、すぐに痛みに顔をしかめる。
 数ヶ月ぶりに聞いた名に、敦の胸に鈍い痛みが走った。しかし表には出さず、
「──では、もう一度事件の詳細を確認させていただきます」
と、受け取った調書をあらためた。


 二宮大尉の証言は、だいたい以下の通りだった。
 参謀本部附の二宮大尉は、軍用地の調査のため三日ほど前から上海入りしていたという。
 昨夜十時過ぎ、所用を済ませた大尉一行は近くに止めていた車に戻った。案内人が運転手を兼ねており、また中国語を理解できない孝徳には常に通訳が付き添っているため、車を離れている間は無人だった。
 乗り込む際「近くの路地からこちらを見ている男たちがいる」と通訳が言った。孝徳がそちらに視線をやると、男たちはすでに去っていた。
 案内人が運転席、通訳が助手席に付いた。孝徳も後部座席に付くべくドアを開けた。
 そのとき、妙な感覚がした。なにとは言えないが、降りる前とは明らかに違う感覚だった。
 不審に思った孝徳はふたりを車中に残したまま、ひとりで降りた。男たちが立っていたという場所をよく観察してみると、何やら光るものが落ちていた。
 拾ったそれは、緑色のバッジであった。
 なぜこんなものが落ちているのか。首をひねったが、もう夜も遅いし、引き上げた方がいいだろう。そう考えた孝徳は、とりあえずそのバッジを軍服のポケットにしまい、車に戻ることにした。
 そして振り返った瞬間、車は大爆発を起こした。乗っていたふたりは即死、孝徳は離れていたので命に別状はなかったが、吹っ飛ばされたドアで右肩をえぐられた。
 調書を読み終えた敦は、
「報告によると、爆弾は車の底に仕掛けられており、遺留品から時限式であったと推測されます」
「時限式、というと、時計を使った爆弾ってことか」
「はい。おそらく、大尉どの一行が車を離れた隙に仕掛けられたのでしょう」
「くそっ、まさか車の底とはな。まったく俺としたことが、確認不足だった」
 悔しげに顔を歪める孝徳に、
「ところで、この調書に『緑色のバッジを拾った』とありますが、まだお持ちでありますか」
「おう、そこにあるぜ」
と、枕元のテーブルを指し示す。敦はそこに置かれていたバッジを見せてもらった。
 小指の爪ほどの翡翠玉に、龍の頭を彫り込んだものだった。
「これは──翠幇の構成員が着けるバッジですね」
「翠幇? なんだそりゃ」
 怪訝そうに眉を寄せる孝徳に、敦は答えた。
「上海の暗黒面を支配するマフィアであります」
 はじめはごく小さな規模だったらしいが、中国全土のアヘン流通を牛耳ったのを手始めに、今では上海一の影響力を持つにまで至ったという。
 だが翠幇のようなマフィアは、別段珍しいものではない。特に上海のように複数の国益が入り乱れる国際都市では、必ずと言っていいほど存在する。金融などの表のビジネスを司るのがきちんと看板を掲げた商社ならば、アヘンや賭博など裏のビジネスを引き受けるのが彼ら裏社会の住人である。
 問題は、別のところにあった。
「そういえば、中国政府と手を組んで、抗日テロを煽ってる組織があると聞いたが、それが翠幇とやらか」
「はい。満州事変以降急速に勢いを増しており、最近では新聞やビラなどを使って大々的に排日運動を起こしています」
 今年の九月、柳条溝の満鉄路線が爆破される事件、通称『満州事変』が起こった。事件を契機として、満州に駐屯する関東軍は奉天など各都市を占拠、以降も日本と中国は戦火を交えている。
 満州より南下を続ける日本軍に脅威を抱いた中国政府は、各地で抗日運動を支援した。ここ上海も例外ではなく、裏社会を率いる翠幇がその役割を担っていたのだ。
「日系の民間企業ならともかく、とうとう俺たち陸軍にまで直接攻撃してくるとはな。ヤツらも大胆になったもんだ」
 これは正面切っての宣戦布告と見ていいんだよな、と憎々しげに吐き捨てる孝徳に、
「彼らも焦っているのでしょう。中国政府よりかなり圧力をかけられていると思われます。おそらく──宣戦布告の一歩手前、脅しに近い物だと推測されます」
「──脅しだと!?」
 孝徳はシーツに拳を振り下ろし、こちらを睨みつけた。
「それじゃなにか、俺の部下たちは翠幇の野郎どもの脅しで、殺されたってのか!」
「大尉どの、落ち着いてください」
「これが落ち着いていられるか!」
 孝徳の拳の中で、真っ白なシーツが握りしめられる。ぎりっと歯を食いしばり、
「あいつらは確かに臨時雇いの民間人だ。だけどな、俺の大事な部下なんだ!」
「大尉どの……」
「あいつらに罪はない。テロリストの標的は、俺だけだったんだ。あいつらは、ただ巻き込まれちまっただけなんだ!」
 血を吐くような叫びとともに、孝徳は片手で顔をおおった。食いしばった歯に、彼の怒りと無念さがにじんでいた。
 かける言葉が見つからず、敦はしばしの間孝徳を見守っていた。
 やがて落ち着いたのか孝徳は、
「……犯人は翠幇の連中で間違いないんだな?」
「まだ、断定したわけではありませんが、このバッジが今後の捜査での重要な証拠になりえると考えております」
 敦は慎重に答えを選び、
「今後の捜査は、工部局主導で行う予定であります」
「工部局だと? 貴様ら憲兵じゃないのか」
「あくまで主導権がないというだけで、こちらはこちらで独自に捜査する方針です」
 爆発が起きた地域は、通称「虹口」と呼ばれる日本人居留区である。だがあくまで共同租界の一部であるから、実際の捜査権は欧米各国からなる自警組織「工部局」が持つことになり、日本軍は手出し無用となる
 しかし敦は、いや日本軍は、ただ指をくわえて成り行きを見ているだけのつもりはない。工部局を出し抜きつつ、独自に捜査を進めることに決まっていた。
「そうか、なら安心だ。アメリカやらイギリスやらにまかせておいたら、百年経っても犯人は見つからないだろうぜ」
 あいつらから見れば、黄色い猿同士のつぶし合いだからな、と孝徳は毒づいた。
 そのとき、病室のドアがノックされた。白衣を着た看護婦が入ってきて「面会は終わりです」とそっけなく告げる。日本人経営の病院だからか、日本語だ。
「それでは、この辺で失礼いたします。事件の進捗状況は追ってご連絡しますので、まずはご静養なさってください」
「葛葉、くれぐれも頼んだぞ。本当なら俺があいつらの敵を取ってやらんとならねえんだが、このザマだ」
 厳しい表情で、孝徳が見上げてくる。
 その強い眼光は、いやでも誰かを思い起こさせ、敦の胸はほんのわずか痛んだ。

     二

 担当医に会ってから、駐車場で待機していた猪塚が運転する車に乗り込んだ。
「直接『白石亭』に向かいますか」
 通りすがりの商店の軒先にかけられた時計を確認する。午前十一時七分。まだ十分余裕はある。
「いや、先に武官室へ行く」
 武官とは帝国大使館付陸軍武官の略称であり、平たく言えば外交官としての任務を持つ軍人のことだ。武官室は、彼らが詰める事務所。
 現在の敦は、この武官の指揮下で動く『上海駐在憲兵隊』の憲兵長と呼ばれる立場にあり、日本人居留民の保護が主な役割である。しかし実際の任務は、各国の軍事動勢および、抗日活動組織の監視と情報収集。早い話が諜報である。
 だが欧米列強や中国政府を刺激しないため、あくまでも諜報活動は秘密裏としており、敦と部下たちは軍服を着ているが憲兵の証である黒い襟章は外して行動している。
 病院から大通りを南に下ったところに、武官室として軍が借り受けている建物がある。駐車場で車を待たせ、敦だけが中に入った。 執務室のドアをノックし、敬礼をする。正面の机に座った袴田隆三郎中佐が顔を上げた。
 駐在武官は比留間少将であるが、実際は補佐官袴田から任務を受けることが少なくない。年齢は四十前後、陸軍きっての中国通で知られる。
 袴田は敦から調書を受け取ると、ぱらぱらと興味なさそうに眺めた。そして、
「どうだった、様子は」
と、端的に訊ねた。
「二宮大尉どのは、右肩を負傷しておられますが意識もはっきりしており、命に別状はないものと思われます」
「ふん、悪運が強いな」
 そうつぶやいた袴田の端整な眉間に、険しい皺が刻まれている。
「上海に来るなら来るで、こちらに話を通してもらわんと困る。勝手にやってきて勝手にテロに巻き込まれて、後始末するこっちの身にもなってもらいたいものだ」
 この一帯の警護責任者たる袴田は、いかにも不機嫌そうだ。
「ま、死んだのが軍属とはいえ民間人のみだったのは不幸中の幸いだった。万が一でも、参謀本部の大事な秘蔵っ子に死なれたら事だからな」
「…………」
 民間人なら死んでもいい、という袴田の言いぐさが気に障ったが、敦はあえて口出ししなかった。
 軍人以外──もっと言えば陸軍士官学校を経た正規軍人以外──を軽視する風潮は、高級将校になればなるほど顕著にあらわれる。袴田もまた、軍に籍を置くがあくまで民間人である通訳たちを、一段も二段も下に見ているのは明らかだった。
 敦は、そういう軍人特有のおごった考えは嫌いだった。
 しかし、いかに理不尽で納得できないことであろうとも、相手は上官である。口答えは許されない。
 さっき聞いた孝徳の台詞が、頭をよぎる。
『あいつらは確かに臨時雇いの民間人だ。だけどな、俺の大事な部下なんだ!』
『本当なら俺があいつらの敵を取ってやらんとならねえんだが、このザマだ。くれぐれも頼んだぞ』
 袴田が軽視する民間人の軍属を、彼は決しておろそかにはしなかった。無残な爆死を遂げた部下を悼み、卑怯なテロリストに怒りを燃やし、敵を討とうと考えている。
 軍人は、決して私情に走ってはならぬ。それは承知しているが、敦としてはやはり孝徳の情の厚さを、真っ直ぐさを、好ましく感じるのが本音だ。
「二宮大尉は、いつごろ退院できそうなんだ」
「まだはっきりとはしませんが、担当医によると最低でも二週間はかかるそうです」
 敦の答えに、袴田は露骨に顔を歪めた。
「そんなにかかるのか。まったく、余計な仕事を増やしおって……」
 そこまで言いかけて、むっつりと口を閉ざしてしまう。その先は、敦には聞かせたくないのだろう。
 袴田も今でこそ上海で任務に当たっているが、れっきとした参謀本部畑である。年齢や階級は違うが同じ畑に植えられたもの同士、複雑な事情があるはずだ。
 袴田は、手元の書類を机の引き出しに放り込んだ。代わりに新聞を投げてよこし、
「耳の早い奴らが、もうすっぱ抜いている。貴様も見ておけ」
「はっ、失礼いたします」
 日系新聞社『東邦日報』の本日付朝刊である。一面トップに【日本陸軍の參謀將校、上海で爆發に卷き込まるる。祕密結社『翠幇』の仕業か】という大見出しが踊っていた。
 敦が事件の一報を受けたのは、今日の明け方である。朝刊に載ったということは、新聞社の方でもほぼ同時に情報を得たことになる。しかも、まるで翠幇の犯行だと決まったような書き方だ。
 いったい誰がスクープしたのだろう。
 敦の疑問を読んだように、袴田は言った。
「他の新聞も似たような記事だ」
「なぜこんなに早く情報が漏れたのでしょうか」
「さあな。とりあえず、しばらく新聞記者との接触は避けるんだ。たしか今日は『白石亭』で昼食会だったな」
「はい。『東邦』の薗田氏と、『毎朝』の早乙女氏、それから『中央通信社』の岡部氏が出席の予定であります」
「キャンセルしろ。今後はしばらく、工部局へ出向いて翠幇の動向調査に専念するんだ」
 こちらを見ることなく、袴田は短く命じる。あとは傍らに詰まれた書類に目を通しはじめた。
「……承知いたしました。失礼いたします」
 それだけ答えると、敦は一礼してきびすを返した。
 執務室を出て、電話室へ入る。受話器を取り、一瞬考えてから『白石亭』の番号をダイヤルする。
 むやみに新聞社に電話を入れて、怪しまれるのは避けたかった。あと四十分もすれば昼食会がはじまるのだし、気の早い誰かが着いているかもしれない。
 応対した仲居に、昼食会のメンバーを呼び出してもらうよう頼む。長い間待たされたのち、受話器から聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「あれ、葛葉くんか。どうしたんだ、もう始まるぞ」
 電話口に出たのは『毎朝新聞』の早乙女だった。
 あまたの記者連中のうち、敦がもっとも懇意にするのが彼だった。ひとつふたつ年長で、歳が近い分なにげない世間話でも弾んだ。。
「えっ? まだ十一時半前ですよね」
「いやいや、もうじき十二時だよ。みんなもうそろってるぜ」
 早乙女の言葉に驚き、軍服のポケットから懐中時計を取り出した。彼の言うとおり、二本の針はもうすぐ真上で並ぼうとしている。
 ──そうか、さっきの時計が止まっていたんだ
 またやってしまった。メンテナンスを怠っているのか、それとも時計自体の精度が悪いのか、上海の街中に設置されている時計はよく時刻が狂っているのだ。
「すみません、時間を間違えてしまいました」
 素直に謝ると、早乙女は「いいさ、中国製の時計の出来が悪いのは有名だからな」と笑われた。
 今度からは自分の懐中時計で時刻の確認をしよう、と心に決めつつ、本題に入る。
「今日の昼食会なんですが、急用が出来たので行けなくなってしまいました」
 当然だが、本当の理由は説明しない。
 対する早乙女は特に驚いた様子もなく、
「あらま、そりゃ残念だ。せっかく花千代の予約が取れたんだがなあ。知ってるだろ、最近上海で話題の、元新橋芸者」
「はあ、名前だけは……」
 あやふやな敦の返事に、早乙女は軽い調子で訊ねてきた。
「忙しいのか? なんかあった?」
「いえ、ちょっと私用でして」
 仕事が忙しい、と口を滑らせてしまうと、今回の事件のことを根掘り葉掘り聞かれる羽目になる。それでなくても新聞各紙がこぞって記事にしているのだ。敦はあえてはぐらかした。
 すると早乙女はしばし間を置いてから、
「私用ねえ……。もしかして、可愛い小姐と会うんじゃないだろうな?」
「まさか」
 つい呆れ声を上げてしまう。
 根が世話好きなのか、単に面白がっているだけなのか、早乙女は敦にしょっちゅう女性を紹介しようとしてくる。おそらく今日呼んだ芸者も、女っ気のない自分にあてがおうと考えていたのだろう。
「あいにくですが、自分にそんな相手がいないことは、早乙女さんもよくご存じでしょう」
「だからだよ。なんたってここは上海だ、抗えない魅力がある。きみが道徳的なのはよく知っているが、背徳の誘惑はその道徳の隙間を縫って忍び込むアヘンの煙のようなもんだよ」
 そう言って豪快に笑うと、「しょうがないな。今日は俺たちだけで楽しむとするよ。じゃあまたな」と言い残し、先に電話を切ってしまった。
 相変わらずのマイペースぶりにあっけに取られつつ、敦もまた受話器を置いた。
 多分、早乙女も他の記者も、例の爆破事件のせいで敦が会合を断ることは予想済みだったのだろう。だからこんなにあっさり解放してくれたのだ。
 なんとなく憮然としつつ、敦は猪塚が待つ車へと戻っていった。


 律儀に寒空の下で待っていた部下に、今日の会合は欠席する旨と、次の行き先を伝える。工部局はここよりさらに南、蘇州河を超えた共同租界の中にあった。
 車窓を流れてゆく景色を、敦は見るともなく眺めた。
 ここ虹口は、日本人居留者が多いためか街並みも日本そっくりだ。瓦葺きの屋根を抱いた商店や民家に、日本語で書かれた幟や看板。道行く和服姿の女性。ともすれば、ここが中国だということを忘れそうなほどである。
 やがて車は蘇州河にかかる外白渡橋を渡り、四川路をさらに南へと下る。
 野暮ったさの残る日本家屋はいっせいに姿を消し、かわって圧倒的な華麗さを誇る西洋建築物があらわれた。
 ここが上海の事実上の中心地である、共同租界だ。
 大理石と煉瓦をふんだんに使った、洗練された美しいビルディングが建ち並ぶ。その隙間を埋めるように、伝統的な中国建築もまた軒を連ねている。
 路面電車の横を行くのは、野菜を担いだ中国服の男や、中国版人力車の黄包車に乗る紳士、交通整理をするインド人巡査、毛皮や宝石で着飾った白人女性など、人種も職業もまちまちだ。
 各国の料理を揃える餐庁が客を待ち、怪しげな薬屋とお高く止まった宝石店がすぐ隣同士に店を構える。
 映画館にはハリーウッドの最新作がかかり、看板には、英語と中国語が並んで記されている。
 西洋と東洋が融合した、一種独特な雰囲気を持つ街。それが上海だ。
 鄙びた港町に過ぎなかったこの街へ、アヘン戦争を期にイギリスやフランスが外国人居留地、すなわち租界を築いた。その後アメリカや日本なども進出し、上海は一躍中国一、いや東洋一の都市へと発展していった。
 だがその裏では、土地を奪われた中国人たちが、独自にアンダー・ワールドを形成していき、結果として表側は豪奢で金さえあればどんな娯楽も楽しめるが、ひとたび皮をむけばアヘンや誘拐などの犯罪が露わになる、“魔都”がつくられたのだ。
 敦がこの“魔都”に転任してから十ヶ月が経つが、とうてい馴染めそうになかった。
 職務の方は、猪塚をはじめとする有能な部下たちが支えてくれるから問題はない。しかしふと、「自分はこの国でなにをしているのだろう」と空虚な思いに駆られるときがある。
 ──今の日本の状態をご覧になれば、元帥閣下はどのように感じられるだろう
 時々、そう思う。
 戦争に明け暮れた前半生を悔いるように、後半生を和平へ捧げた二宮平八元帥。
 その彼が、ここ数ヶ月で急にきな臭くなった日本を見ずにこの世を去ったのは、果たして幸運だったのだろうか。
 葬儀にも出席できず、墓前に花を手向けることすらできなかった敦には、こうして胸の内でつぶやくしかない。
 満州事変は、正当防衛の結果である。
 父も参加した日露戦役で権益を獲得した満州、そこを中国は不当に攻撃してきた。降りかかる火の粉は払わねばならない。
 敦も軍人の端くれだ、争いが怖いわけでも、逃げ回る気もない。いざとなれば腹をくくる覚悟は当然ある。
 しかし、それは本当に必要な戦争であればの話だ。無用な戦争に参加する気はない。
 のちに『九・一四事件』と通称の付けられた浅倉一派のクーデターの目的は、わざわざ火種を起こして大陸へ侵攻するというものだった。そういったものを受け入れるつもりは、断じてなかった。
 こんな考えを持つようになったのも、戦争忌避派の元帥閣下の薫陶があったからだ。もし後見人が武闘派の軍人ならば、自分もあるいは急進派の将校になったかもしれない。
 ふう、と小さくため息をついて、敦はふたたび車窓の風景に視線を転じた。
 路面電車や車が通るたび、未舗装の道路にもうもうと砂煙が立つ。その中を、顔を真っ黒にした苦力たちが懸命に俥を引いてゆく。ぼんやり眺めていた敦の目の端に、ひとりの女性の姿が飛び込んできた。
 黒いオーバーに身を包んだ、断髪の女性。その後ろ姿に、見覚えがあった。
 気がついたとき、敦は運転する猪塚に怒鳴っていた。
「止めてくれ!」
「中尉どの、どうされましたか」
 驚いてブレーキを踏む猪塚に構わず、後部座席から飛び出した。歩道を行き交う人々を押しのけ、黒いオーバーの後を追う。しかし人が多すぎて、すぐに見失ってしまった。
 雑踏のなか呆然と立ちすくむ敦に、次々と通行人がぶつかっていく。ある者はすれ違いざま舌打ちを、またある者は罵声を残していった。
 あの後ろ姿は。あの断髪は──。
 ──環さん……?
 そう心の中でつぶやいたと同時に、胸が絞られるような感覚に襲われる。
 東京に残してきた、あの人。
 この十ヶ月、考えないようにしてきた、あの人──。
 ──どうして、今になって……
 ぐっとこぶしを握りしめたと同時に、ガラガラと音を立てて黄包車が脇を通り過ぎる。黄色い砂煙をまともに浴びた敦は、眼鏡を外して顔中をこすった。ざりざりとした不快な感触は、いつまで経っても慣れやしない。
 眼鏡をかけ直そうとすると、レンズが薄く埃を被っているのに気付いた。これでは見えるものも見えやしない。
 そうだ、自分はなにも、見えていないのだ。
 ──人違いだろう。そうに決まっている
 東京にいるはずの環が、いるはずはない。
 この十ヶ月、彼女のことを思わないようにしてきた。いつか忘れられると信じてきた。
 それが今日、兄である孝徳に会ったことで、意識上に浮かんできた。
 孝徳の顔立ちが、立て板に水の如き話し方が、そして濃茶の瞳が、いやになるほど環にそっくりなのだ。思い出すなという方が無理というもの。
 そう、それだけだ。
 軍服の袖で乱暴にレンズを拭うと、敦は猪塚の待つ車へと戻っていった。

     三

 その後二日間、敦は工部局にて翠幇率いる抗日組織の動向調査に当たった。
 もちろん工部局側は、捜査権のない日本軍がしゃしゃり出るのを渋ったが、袴田から「あえて目立つように捜査せよ」という命を受けていた。おそらく「日本軍はいつまでも欧米列強の言いなりにはならない、日本人が巻き込まれた事件は自分たちで処理する」という態度を示す意志があるのだろうと、敦は解釈していた。
 そして三日目の朝、敦の元へ部下が訪れた。
 なんでも二宮大尉直々に、敦を見舞いに寄越すようご指名があったという。新しい情報が聞けるかも知れないと考え、猪塚のみを連れて福宮病院へと急行した。車を止めている猪塚を置いて、先に病室へと向かう。
 複雑に入り組んだ廊下を進み、入院棟への角を曲がったところで、毛皮のオーバーを着た婦人とぶつかった。
 顔立ちは色眼鏡のせいで分からないが、釣鐘帽子からはみ出た黒髪やオーバーの裾から伸びた旗袍から察するに、中国人のようだ。
〈失礼、大丈夫ですか〉
 覚えたての中国語で声を掛け、床にへたりこんだ女性を助け起こす。しなやかな手を取ったと同時に、濃厚な香水が薫った。
〈お気遣いなく、ただの貧血ですわ〉
 美しい発音で答え、女性が色眼鏡を外す。くすんだ灰色のレンズの下から、息を呑むほど大きな瞳があらわれた。
 まだ若く、たいへんな美貌だった。暗闇に咲く百合のごとき妖艶さに、魅入られたようにしばし言葉を失ってしまった。
〈ありがとう。お優しい方ね……〉
 紅い唇が開き、皓歯がこぼれる。女性がふたたび口許を動かしかけたとき、看護婦が通りがかった。
 我に返った敦は、看護婦に彼女が貧血である旨を伝え、一礼をしてその場を去った。早足で廊下を歩き、だいぶ離れたところで小さく息をついた。
 見覚えのある顔だ。
 個人的な知り合いの中国人女性はいないはずだから、どこかで見たのだろう。
 新聞か、雑誌か、それとも軍の資料か。
 記憶をたぐっていると、駐車場に車を止めていた部下が追いついた。
「猪塚、その先で女性とすれ違わなかったか。毛皮を着た中国人女性だ」
 問われ、猪塚は吊り上がった目をまたたかせた。
「いいえ、誰とも会いませんでしたが」
「そうか……」
 ふたたび考え込んだ敦をどう思ったのか、
「中尉どのが女性に興味を持たれるのは、めずらしいですね」
と、大まじめな顔で言った。
「馬鹿、そんなんじゃない。見覚えのある顔だと思っただけだ」
 あわてて否定すると、今度こそ病室へと向かった。


 ドアを開けると、孝徳は窓際で外を眺めていた。敦の顔を見ると、窓を閉めてベッドへと戻ってくる。
「今日は、貴様の耳に入れたいことがあってな。吉報か凶報かは、貴様次第だがな」
「は……。いったい何でありますか」
「ぜひとも貴様に会わせたい人間がいるんだ。驚くなよ?」
 にやりと笑ってもったいつける孝徳の様子に、敦は先日のことを思いだした。
「もしやその方とは、環さんのことでしょうか」
 南京路の近くで見たことを話すと、孝徳は目を丸くした。
「なんだ、知ってたのか」
 つまらん、と唇を尖らせる。
「ちょうど貴様が調書を取りに来た日にな。内地にいるウチの家内に聞いてやって来たんだとよ」
 やはり、あれは見間違いではなかったのだ。
「貴様と入れ替わりでいきなり病院に来たから、俺もビックリしたよ。さてはとうとう貴様の尻尾を掴んだのかと思ったが、偶然らしいな」
「……はい。環さんは自分が上海にいることはご存じないので……」
「そうみたいだな。貴様が異動してすぐ、兵科違いの俺にまで行方を訊ねに来たくらいだからな」
「それは……」
「本人が黙って去った以上、俺の口からはなにも言えん。今もアイツは、貴様が上海にいるとは知らんはずだ」
「……申し訳ありません」
「俺は別に謝って欲しいわけじゃねえよ。貴様の立場上、言い出しにくかったって事情も分かるしな。ただ、黙って姿を消しておいて女に探し歩かせたあげく迎えにも行かんのは、男として卑怯だと思うだけだ」
「…………」
 ぐうの音も出ない。
 返す言葉もない敦を横目に、孝徳は左手を伸ばしてテーブルの引き出しを開け、スリーキャッスルの缶を取り出した。
 中から一本引き抜き、くわえる。ついでに一緒に入っていたマッチも出してきて、敦の方へ投げた。火を付けろということらしい。
「タバコはお身体に障ります」
「固いこと言うな、一本だけだ。看護婦がいるとうるさくて吸えねえんだよ」
 止めても聞かないのは、二宮家の血筋らしい。仕方なく、マッチに火を付けタバコに移してやる。
「ほら、貴様もやれ」
「いえ、自分は……」
 言いかけて、己をかえりみた。
 階級を抜きにしても断れる立場ではないし、そもそも軍とは上官の意に逆らえないものだ。
「……いただきます」
「おう。人間、素直が一番だ」
 もう一本マッチを擦り、火を付ける。吸うふりをしてもバレるだけだから、最初から深く吸い込んだ。口中にねっとりと味が広がり、喉の内側へ張り付きながら下りてゆく。普段縁のない高級品だけあり、味に雑味がない。
 立ったまま喫煙するのも気が引ける、と思っていると、狙い澄ましたようにふたたび椅子を勧められ、結局座ることになってしまった。


 しばらく紫煙をくゆらせていると、おもむろに孝徳が口を開いた。
「すまんかったな、うちの親父が」
「……中将閣下が、なにか」
「とぼけなくていい。皆分かってるこった」
 今回の人事が異例であることは、誰の目にも明らかだ。辞令を読み上げた当時の上官は「しばらくほとぼりを冷ましてこい」と言った。しかし、敦には冷ますほとぼりなどない。
 考えられるとしたら、環の父である二宮中将の逆鱗に触れたことくらいだ。
 上官が二宮中将のかつての部下で、今でも頭が上がらない事実を考慮すると、仕組まれた人事であることは間違いない。
「誰が悪いわけじゃねえ、貴様だって十分すぎるほど働いたんだ。ただ、親父は自分の庭で騒がれた上に責任取らされたから、八つ当たりしてるのさ」
 たまたま貧乏くじを引いたのが貴様だっただけだ、と付け加える。
「祖父さんに忠誠を誓う貴様なら、一方的に飛ばしたって文句を言わんと踏んだんだろう。まったく、職権乱用もいいところだぜ」
 敦が内心感じていたが口に出来なかったことを、孝徳は遠慮なく切って捨てる。まるで、今の気持ちを代弁してもらったようで、幾分心が軽くなった。
 だがやはり、立場上ここで同調するわけにはいかない。
 敦は控えめに口を挟んだ。
「大尉どの。今さら言い訳のようで心苦しいですが、自分は中将閣下を害するつもりは毛頭なく……」
「分かってるって。どっちかというと、親父からすればクーデターの発覚云々より、貴様に環を持ってかれた方がムカつくんだろ。二宮に恩義ある貴様なら間違いも起こらないだろうと護衛に当たらせたのに、裏目に出ちまったんだからな。まあしょうがねえよな、いくら忠臣でも若い男なんだし、間違いのひとつやふたつ起こって当然だ」
 とんでもない誤解だ。一気に耳まで熱くなるのが分かった。
「そんな……。自分は決してそのような不純な……」
「今さらなんだよ、隠すこたァねえだろ」
 孝徳はそう言うと、ちょっと肩をすくめた。
「環もなァ、もうちょっと貴様の立場を考えて行動すりゃよかったんだがな。ま、あいつは昔っから一度決めたら誰がなんと言おうと突っ込んでいくヤツだから、どのみち無理だったろうけどさ」
「はあ……」
 実の兄にまで呆れられている。さぞかし手の付けられないおてんばだったのだろう。
 タバコの灰を落としながら、孝徳は言った。
「知ってたか? 祖父さんは貴様を環の婿にするつもりだったんだぜ」
 ずきん、とかすかに胸が痛んだ。だが平静を装い、
「はい。正式にお話をいただいたことはありませんでしたが、うすうす感じてはおりました」
「やっぱりな」
 あれはいつだったろう。
 士官学校を卒業し、原隊に着任する直前だから二十一、二くらいか。
 一度だけ、二宮家本邸に招かれたことがある。といってもきちんと段階を踏んだ訪問ではなく、あくまでも私的なもので、元帥閣下のお伴のような形で訪れたのだ。
 しばし歓談していると、ドアが開き女学生が顔を出した。
 紫色の着物に同色の袴をつけた、目を見張るような美少女だった。元帥が「孫の環だ」と紹介し、こちらへ来るよう手招きした。
 すると少女は一瞬むっと唇を曲げたが、すぐに早足で入室し、敦に向かって「ごきげんよう」と会釈すると、さっさと出て行ってしまった。後で知ったのだが、あれは一種の顔合わせだったらしい。
 九段下で再会したときにはなにも言われなかったので、きっと環はこのことを忘れているのだろう。
「当時はずいぶんつっけんどんなお嬢さんだと感じましたが」
「そりゃ、その時分アイツはしょっちゅう婿候補に引き合わされて、いいかげん頭に来てたからな。でもまあ、挨拶されただけ貴様はマシだ。気に入らない男には、鞄を投げつけたこともあるそうだぜ」
 鞄投げの洗礼を受けていたら、今ごろどうなっていたことか。考えないことにしよう。
「貴様が憲兵に転科すると聞いて、祖父さんは内心あわてただろうさ。将来出世の見込みがあるから世話してたのに、台無しにされたんだからな」
 なによりつらい指摘を、孝徳は容赦なく切り込んでくる。敦は唇を噛んだ。
 自分は、元帥の期待になにひとつ応えられなかった。それどころか、恩を仇で返すような真似をしてしまった。
 だが元帥は、なにも言わずに見守ってくれた。母の援助も申し出てくださった。
 孫婿になることが叶わなかった以上、敦に出来ることは憲兵として影ながら二宮家に尽くすことだと考えていた。
 それなのに──。
「おいおい、シケた顔すんな。環だってまんざらでもないみたいだし、問題ねえだろ」
「……自分にはなんとも……」
「もちろん親父は反対するだろうけど、先にガキのひとりでも作っちまえば折れてくれるさ。ああ見えても孫には甘いんだ」
「──……っ!」
 あまりにあけすけな表現に、敦は絶句してしまった。いったん引いた熱が、またもやよみがえる。
 その様子を見た孝徳は、にやにや笑ってあごを撫でた。
「やっぱりまだ手ェ出してなかったんだな。それで飛ばされてりゃ世話ねえな。まったく、三ヶ月も一緒に住んでたくせに何やってんだ」
「そんな、自分は決してそんなつもりでは……」
 あまりの羞恥に、しどろもどろになってしまう。真冬だというのに、身体が熱くて仕方がない。
「環はああ見えてもアッチの方はさっぱりだから、そんな調子じゃいつまでたってもママゴトから進まねえぞ」
「いや、ですから……」
「つっても、肝心の環がこれっぽっちも色気がねえからなァ。あのじゃじゃ馬相手にその気になれってのも無理な話か。ここはひとつ、貴様の腕前で落としてみせろよ」
「──お待ちください!」
 もうこれ以上は耐えられない。つい大声を上げてしまう。
「自分は、環さんにはふさわしくありません」
「ほう?」
 それまでにやにや笑っていた孝徳が、一転真顔に戻った。
「なら聞くが、環の婿にふさわしい資格ってのは、いったいなんだ」
「少なくとも、自分の経歴では該当しないことは、確かであります」
「なるほど。天保銭組じゃないと伯爵令嬢をもらえないって言いたいのか」
『天保銭組』は陸大卒業者を指す隠語であり、将来の栄達を保証されたエリート中のエリートだ。敦たち『無天組』の最終階級がよくて中・大佐止まりなのに対し、『天保銭組』はほとんどが将官へと登りつめる。
 ゆっくりとタバコを吸い、天保銭組のひとりである孝徳はつぶやいた。
「伯爵ったって、しょせんは祖父さんひとりの功績しかない成り上がりだ。親父も兄貴も、もちろん俺も功を立てたことなんかねえ。本来なら祖父さん一代限りの爵位にすべきなんだが、俗物の親父は襲爵手続きをしちまいやがった」
 壁に頭をもたせかけ、細く長く煙を吐き出す。
「俺たちゃただの軍人一家だ、身分がどうのってのは気にしなくていい。それより、貴様たちの気持ち次第だ」
「…………」
「俺は、アイツが家柄に釣り合うだけの男に嫁がされるくらいなら、好きな相手と添い遂げさせてやりたいだけさ。家に縛り付けられるのは、俺や兄貴だけで十分だ」
 孝徳はそう言うと、短くなったタバコを灰皿に押しつけた。その薬指には、銀色に輝く指輪が光っていた。
 敦もまた、ほとんど灰になってしまったのをもみ消す。
 正直に言うと、孝徳がここまで環の気持ちを汲んでいるとは予想外だった。中将以下全員が、伯爵令嬢にふさわしい結婚を望んでいるものとばかり思っていたからだ。
 しかし──。
「──大尉どの。お心遣いはたいへん光栄でありますが、やはり自分は環さんの人生に必要たる人間ではありません」
「お堅い貴様がそう言うのは、予想の範囲内だ。だが、ひとつだけ聞かせてくれ」
 強い眼差しが、敦をとらえる。
「貴様自身、環をどう思っている? 身分とか資格とか、そういう面倒くせえのは全部とっぱらって、正直に答えてくれ」
 喉元に白刃を突きつけられたような圧迫感に、敦はぐっと息を呑んだ。
 長い時間黙っていたが、ようやく、
「……率直に申し上げると、自分でもよく分かりません」
とだけ答えた。
 決して嫌いな訳ではない。むしろ、誰より大切なひとである。
 だがそれが、果たして恋や愛と呼べる種類のものであるのか。
「ですが、環さんには幸せになってもらいたいと考えています。今の自分には、それしか言えません」
 そう、彼女を幸せにできるのが、たとえ自分でなくても。ふさわしい資格を持った男で、彼女を大切にしてくれるのであれば。
 敦の答えを聞いた孝徳は、
「……そうか」
とだけつぶやいた。
 しばしの沈黙。先に口を開いたのは、敦だった。
「ひとつ、お願いがあります」
「なんだ」
「自分が上海勤務であることを、環さんには秘密にしていただきたいのです」
 孝徳の茶色がかった瞳が、じろりと動く。
「往生際の悪いヤツだ。この期に及んでまだ逃げるつもりか」
「逃げる気はありません。ただ気持ちの整理が付くまで、もう少し時間をいただきたいだけです。勝手なようですが、どうかお願いします」
 立ち上がって頭を下げると、孝徳は黙り込んだ。
 しかしすぐに、ふっと笑みを作った。
「──そうか、よく分かった。だけど、ちょっとばかり遅かったな」
「は?」
 そのとき、廊下が騒がしくなった。警護兵と猪塚の、制止の声が聞こえる。
 まさか、将校殺害に失敗した実行犯が、とどめを刺しに来たのではなかろうか。にわかに緊張した敦は、半身を起こしていた孝徳を横たえさせ、頭から布団をかぶせておく。てっきり抵抗されると思いきや、彼は存外あっさりと従った。
 そしてドアの横に移動し、拳銃を取り出した。弾を確認してから胸の前で構え、息を殺す。
 耳を澄ますと、廊下の騒ぎが聞き取れた。
「──ですから、今はいけません。どうかあらためて……」
「うるさいわね! あたしだって事情を聞く権利はあるでしょ。身内なんだから!」
 聞き覚えのある、声。
 緊張も忘れ、一瞬呆けてしまった。
 と同時に、外れんばかりの勢いでドアが開かれた。

     四

 勤務を終えた敦はフォードのハンドルを握り、上海での仮住まいにしているアパートメントへと向かっていた。普段は私用に使わないのだが、今日は必要になるだろうと思い、借りてきたのだ。
 アパートメントの近くに来たところで、真向かいに新しく開店した薬屋が近隣の住人を招いて大宴会をしているのを見つけた。道路に人々が溢れて通れないため、仕方なく迂回して駐車場へ入る。
 車を降りて、懐中時計を取り出す。午後八時四十分。いろいろあったせいで、すっかり遅くなってしまった。
 昼間、孝徳の病室に乱入してきた環は、すぐには状況を認識できなかったらしく、きょとんとした顔をしていた。やがて事態が把握できたのか、見る見るうちに般若の形相になってゆく様子に、敦は久々に本物の恐怖を味わった。
 猛然とつかみかかろうとするのを、警護兵と猪塚が必死に引きはがし、なんとか落ち着かせようとしたのだが、ふたりとも環の勢いに圧倒されるばかりだった。唯一この場を収められるはずの孝徳といえば、布団から顔を出して、観客よろしくはやし立てる始末である。
 敦は懸命に「詳しいことは後で説明しますから」と訴えたが、彼女は聞く耳を持たない。結局、アパートメントの鍵と住所を渡し、逃げるつもりがないことを証明して、ようやく納得してもらえた。自業自得とはいえ、敦の株はとことんまで墜ちたらしい。
 そうしてほうほうの体で病院を辞し、一日の仕事を終えてようやくここまで来た。
 なんとなく足音を立てないよう廊下を歩き、部屋の前に立つ。自室のドアを開けるのにこれほど覚悟を要したことは、いまだかつてない。
 意を決して、ドアをノックする。すると間髪入れず、向こう側になにかがぶつかる音がした。
 第二波が来ないことを確認してから、そっとドアを開ける。万が一包丁でも飛んできた場合を考慮し、かなり低い姿勢で中へと入った。足許にはハンドバッグが落ちている。鞄投げの洗礼は、結局受けなければならない運命だったようだ。
「環……さん?」
 部屋の中央で、環が仁王立ちしている。背後に不動明王が見えるようだ。
 目が合うと、手にした雑誌を投げつけてきた。
「何時だと思ってんの、さっさと帰ってきなさいよ!」
「すみません、仕事が長引きまして……」
「言い訳なんか聞きたくない!」
 もう片方に持った分も投げられる。次々に襲いかかる飛来物を両肘で防いでいると、やがて攻撃が止んだ。
「……?」
 おそるおそる腕を下げる。やや離れたところに立った環は、手に枕を持ったままうつむいていた。
 ゆっくり近づき、様子を確かめた。
 えんじ色のツーピースの上に羽織った、レースのショール。その肩が、小刻みに震えている。
 顔をのぞき込もうとしたとほぼ同時に、環が顔を上げた。
 貧相な灯りに照らされた頬は、幾筋もの涙で濡れていた。
 それを見たとたん、軍服の内側で心臓が跳ねた。




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